NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

オリザニンの日

12月13日は「ビタミンの日」である*1。いまからちょうど100年前の今日、1910年(明治43年)12月13日。東京化学会常会において、鈴木梅太郎は、米糠中に含まれる微量の未知物質について発表した。当時、既に、エイクマンの行った実験によって、白米のみで育てた鳥が脚気様の症状を来たすこと、米糠を与えれば症状が改善することは知られていた*2。鈴木は、米糠から分離抽出した有効成分を仮にアベリ酸と命名した。アンチベリベリ(ベリベリとは脚気のこと)という意味を込めたらしい。後にこの有効成分は、酸ではないことが明らかになり、オリザニンと改められた*3。オリザニンはイネの学名「オリバ・サティバ(Oryza sativa)」に由来する。ちなみに、「もやしもん」で有名になったオリゼーも、米麹から発見されたことに由来する。

「栄光なき天才たち」

伊藤智義・作、森田信吾・画、「栄光なき天才たち」の第一巻で、東京化学会発表の前後の鈴木梅太郎が描かれている。いくつか事実と異なる点があるが、本作品は事実を元にしたフィクションであり、漫画としての作品の価値を損なうものではないことを、念のために言っておく。





「東京化学会」
「学会員には鈴木の様な農芸化学者だけでなく当時の医学会を代表する大物医学者たちも顔をそろえていた」


漫画では、「ぜひ臨床試験を行って下さい!そして一刻も早く日本から脚気を追放しようではありませんか!!」と訴える鈴木に対する、医師たちの冷ややかな反応が描かれている。





「農芸化学者は大根作ってりゃいいんだ!」

当初、オリザニンが臨床の場で使用されなかった理由は?

オリザニンは東京化学会での発表の翌年に三共合資会社(三共製薬)から発売されたが、1919年に島薗順次郎が報告*4するまで、オリザニンによる脚気治療報告は出なかった。「栄光なき天才たち」では「プライドの高い医学界は部外者である農芸化学者鈴木の言う事などに耳を傾けようとはしなかったのである」と説明されている。しかし、必ずしもそうとは言えない。

鈴木は、オリザニンを抽出する以前は、米糠中の有効成分は無機塩類であると誤って考えていた。山下政三著「脚気の歴史」に詳しい。1909年(明治42年)に「糠から有機性燐化合物フィチンを大量に製出し、ユーキリンと名付け」治療薬として売り出した。効能書きには「脚気に対し殆ど特効的の効あることなり」とあった*5。ユーキリンは、「部外者である農芸化学者」によるものだから使用されなかったというわけではなかった。



難病脚気の処置に困惑していた医学者たちは、ただちに鈴木のユーキリンについてその効果を検討した。しかし、結果は―


(中略・効果なしとする複数の報告)


と、すべて否定的な成績ばかりであった。そのためと思われるが、明治四十四年四月以後には、ユーキリンの効能書きから脚気特効薬であるかのような文言は姿を消している。


鈴木も自説の誤りに気づき、撤回した。科学には誤りはつきものなので、これは仕方がない。ただ、ユーキリンの一件で「医学界から信用をされなくなったのでは」と山下は指摘している*6。また、脚気に効果がある成分を米糠から抽出したと称する製剤は、当時、オリザニン以外にも発売されつつあった。たとえば、都築甚之助は米糠から有効成分を抽出し、アンチベリベリンと命名して販売した。山下によれば「不純ではあったが、日本においてはじめて糠の有効成分を抽出し、さらに抽出剤を脚気治療薬として実地に患者の治療に使用したのは都築甚之助が最初であった」*7としている。当時の医師たちが、米糠からの抽出製剤を使用したければ、「前科」のある鈴木のオリザニンを使う必要はなかったのである。


鈴木は「真のビタミンの発見者」か?

「栄光なき天才たち」では、鈴木は「真のビタミンの発見者」であるとしている。



鈴木梅太郎が、ノーベル賞をもらえなかったのはなぜだろうか?国内の不遇は別にしても、実際に鈴木が、世界で初めて新栄養素“オリザニン”(今日のビタミンB1)の発見を一九一一年(明治四四年)七月、ドイツ学会誌に発表しているのだ。しかし、世にビタミンの発見者として知られているのは、その四ヶ月後、鈴木とほぼ同じ方法で同じ物質を結晶化し、それを“ビタミン”と名付けて発表した、イギリスのフンクである。そして、さらにややこしいことは、一九二九年のノーベル医学・生理学賞は、鈴木でもフンクでもなく、オランダのエイクマンと、イギリスのホプキンス(ともにビタミンの先駆的研究を行った)であった。


実際のところは、鈴木がビタミンの発見者の1人であるのは確かであるが、「真のビタミンの発見者」である、あるいは、ノーベル賞をもらって当然である、というのは言い過ぎであるようだ。鈴木は、海外でも一定の評価はされている。科学史の専門家である岡本拓司によると、「鈴木は1914年、ドイツの薬理学者からノーベル医学生理学賞への推薦を受けている。また、20年代のビタミンに関する英語の教科書には、鈴木やオリザニンの名前があった」*8とのことだ。ただし、化学的手法への評価は高かったものの、あくまでビタミンB1の発見に関わった研究者の1人という位置づけである。フンクが鈴木の業績を横取りしたかのように言われることがあるが、松田誠によると、フンクの業績はビタミンB1の発見に留まらない*9



Funkの名声はしかし,このようなビタミンの精製や命名だけによるのではなく,同じころ刊行した総説 The etiology of the deficiency diseases「欠乏症の原因」に示された思想によるのである.それは彼の優れた科学的洞察と直観による実験医学と実験栄養学の統合を示すものであった.その総説の中で彼は少なくとも4つのビタミンの存在を提案し,それがそれぞれ脚気,壊血病,ペラグラ,くる病を予防する因子であると考えた.そしてこれらの病気をビタミン欠乏症deficiency diseasesとしてまとめたものである(この考えは先述のHopkinsもすでに素朴なかたちで直観していた).


海外でのフンクの名声の高さは、一ビタミンの発見に留まらず、ビタミンという概念の提唱者・唱道者であったことに由来する。ビタミン学説の体系化についてはフンクが第一人者であることは間違いない。


鈴木梅太郎の功績

しかしながら、鈴木が、ビタミン発見あるいは脚気の歴史において、重要な役割を果たしたのは確かである。前述したように、1911年頃から、都築甚之助などによって開発された糠製剤が脚気に使用されはじめたが、それでもなお脚気の原因は明らかにならなかった。当時の製剤は効力が弱く、効果がはっきりしなかったからであろう。

私が文献を検索してみた限りにおいて、活発な議論がずっと継続されていたわけではなく、1919年に島薗順次郎が脚気宿題報告を行って、脚気論争が再燃したようである。この島薗の報告が、最初のオリザニンの脚気治療報告とされている。島薗の報告の後、あれほど混迷していた脚気論争が、わずか5年ほどで概ね決着がついている(1924年に、脚気の原因がほぼ解明されたとして臨時脚気病調査会が中止された)。その理由は、鈴木のオリザニンは、やはり不純ではあったものの、他の糠抽出製剤と比較して効力が強かったからではないか。

島薗らが成功したのは、効力の弱い他の糠抽出製剤ではなく、オリザニンを使用したからと考えると、納得がいく。たとえば、1921年に、大森憲太によるビタミンB欠乏食人体実験*10が行われたが、ビタミンB欠乏食にて脚気症状を引き起こした被験者は、治療試験としてオリザニンを使用されている。島薗らをはじめとしたビタミンB欠乏説をとる医学者にとって、ビタミンBの標準製剤がオリザニンであった。いずれは脚気の原因は判明したであろうが、オリザニンがなければ、ビタミンBの治療効果ははっきりせず、脚気論争は長引いたであろう。鈴木の優れた化学的手法が、脚気論争を終了させた大きな要因になったと私は考える。

参考文献

東京化学会での発表の翌年の1911年に鈴木が書いた論文(「糠中の一有効成分に就て」、鈴木梅太郎, 島村虎猪、東京化學會誌 Vol.32 , No.1(1911)pp.4-17)は、ネットで全文が読める。

■東京化學會誌


島薗順次郎による1919年の脚気宿題報告(「脚気宿題報告」、日本内科学会雑誌 7:237-342(1919) )も全文が読める。大森憲太は、この報告の載っている内科学会雑誌を「幾度も繰り返して読んで、少し大げさにいえば「緯編3度断つ」といういうほどであった*11」という。

■日本内科学会雑誌 島薗の論文はP237-342。鈴木への言及はP253あたりから。


*1:URL:http://www.city.makinohara.shizuoka.jp/asp/mc0040.asp?eno=H998080375

*2:■長門で学ぶビタミンB1発見史

*3:■理研ニュース 2001年2月号

*4:島薗順次郎、脚気宿題報告、日本内科学会雑誌 7:237-342(1919)

*5:山下政三、脚気の歴史、P288

*6:2006年8月1日 朝日新聞夕刊 「ビタミン研究の先駆」 鈴木梅太郎 見方さまざま

*7:山下政三、脚気の歴史、P433

*8:2006年8月1日 朝日新聞夕刊 「ビタミン研究の先駆」 鈴木梅太郎 見方さまざま

*9:■高木兼寛とビタミン

*10:■おもしろそうだから人体実験してみた

*11:「ビタミン研究五十年」、ビタミン50年記念事業会発行、1961年、P6