NATROMのブログ

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立ち読み防止フィルムの売り上げに対する影響の評価は疫学研究によってしかできない



特定の曝露がヒトの健康に対して影響を与えているかどうかについて、最終的な評価は疫学研究によってしかできない。*1


「本屋のほんね」というブログに、■コミックにシュリンクをしないとどうなるか?(その1)という記事があった。シュリンクとは、立ち読み防止のため、本にかかっている透明なフィルムのことである。買う方の立場から言えば、中身が確認できないというデメリットがあると同時に、立ち読みで汚されていないきれいな本を購入できるというメリットがある。本屋さんにとっては、シュリンクによって売り上げがどうなるかは重要な問題ではあるが、「シュリンクをしないと売上が下がる」「シュリンクをする必要なんかない」という両方の意見があるそうだ。



では現在、圧倒的多数の「シュリンクをしないと売上が下がる」派の主張を聞いてみましょう。

「本が汚れるから売れない」

「立ち読みだけして買っていかない」

「立ち読みだらけで売場が乱れ放題」

「中身だけ確認されてシュリンクしている他店で買われてしまう」

だから売上が下がる。なるほど、正論です。私の知る限り、コミック担当者の方は99%こちら派ですね。

逆に「シュリンクをする必要なんかない」派の主張も聞いてみましょう。

「中身がよめたほうが、新しい本と出会える。新規顧客を獲得できる」

「試し読みできないと、面白いかどうかわからないから買わない」

「すぐに破かれるシュリンクは、経費の無駄、環境にもやさしくない」

「シュリンクをかける手間と人件費は、もっと売上を生むほかの仕事にまわすことができる」

はい、これも正論です。でもお気づきかもしれませんが、双方の論拠となる前提条件が異なるため、実はこの二つは論点がかみあっておりません。かくしてこの論争はその昔、なかなか決着しなかった大きな問題だったのであります。


引用元で述べられているように、どちらの意見も正論であるが、「私はシュリンクしている店で買う」「いいや、私は中身が確認できる店で買うね」などと延々議論したところで結論は出ない。実際にデータを取らずして、シュリンクが売り上げに与える影響について判断するのは困難であろう。引用元のブログでは、「いいよ、しょうがない、実験しちゃる。俺が実験しちゃる。こうなったら実験してデータとるしかあるめぇ!」として、シュリンク開始前後のコミックの売上推移のデータを提示して、「コミックにシュリンクをしないと、売上は下がります!!」と結論付ける。シュリンクを曝露(exposure)、コミック売り上げを結果(outcome)と考えると、これは疫学調査、それも介入研究にあたる。厳密に言えば、対照群のとりかたが不適切ではある。シュリンク開始後にコミック売り上げが増えているように見えるが、もしかしたら、シュリンクではなく、別の要因が売り上げ増の原因かもしれない。しかしながら、実測したデータなしに行われる議論とは比較にならないほど有意義である。

疫学の歴史において、このシュリンク実験と似ている有名な研究がある。脚気はビタミンB欠乏が原因だと現在ではわかっているが、1800年代には原因不明であり、日本の軍隊では多数の脚気患者が出ていた。海軍軍医である高木兼寛は、食事と脚気の関係を疑い、蛋白質を多く含む改善食を水兵に食べさせる実験を行った。食事を改善する以前と比較して、改善食を与えた群では脚気の発生数は激減し、十分な蛋白質を含む食事が脚気を防止すると結論した。厳密には対照群の取り方は不適切であったし、実際には蛋白質不足ではなくビタミンB欠乏が脚気の原因であったが、この実験が多くの海軍兵士の命を救ったのは確かである。詳しくは、■やる夫で学ぶ脚気論争を参照のこと。

例に挙げたシュリンク実験は、対象が特定の店に限られる。立地条件や客層によってシュリンクの影響が異なることは十分に考えられる。多くの店について、シュリンクの有無と売り上げのほか、立地条件や店の規模などをアンケートで調査してみたら面白いかもしれない。疫学での横断研究にあたるだろうか。ただ、傾向はある程度はわかるとしても、シュリンクの影響の評価は難しいかもしれない。たとえば、売り上げが落ちてきた書店がシュリンクをする傾向が存在したとしたら、売り上げの少ない店がシュリンクをしているという傾向が得られるが、この場合、シュリンクは売り上げ減の結果であって、原因ではない。シュリンクの影響をもっと正確に評価するならば、たとえば次のような方法が考えられる。十分な数の書店に実験に参加してもらい、まったくランダムにシュリンク群と非シュリンク群に分け、それぞれの群での売り上げを比較する。無作為割付介入試験ということになろう。しかし、シュリンクの売り上げの影響を調べるためにここまで厳密な手法を取る必要はあるまい。目的のためにコストに見合った方法を選べばいい。

実際の疫学での研究対象は、人間の集団の健康状態である。冒頭で引用したように、特定の曝露がヒトの健康に対して影響を与えているかどうかの判断は、疫学研究によってしかできないが、そのことは十分に知られていないようだ。たとえば、船瀬俊介による、抗癌剤は毒物であり、がん患者は「抗がん剤で殺される」のだという主張を鵜呑みにして、あらゆる抗癌剤が有害無益であるかのように信じている人たちがいる。もちろん、抗癌剤は毒物である*2。副作用もある。しかし重要なのは、抗癌剤を投与することによって生存期間が延びるのか、あるいは、QOL(生活の質)が上がるのか、である。抗癌剤が毒物であるかどうかではなく、抗癌剤を投与した群と投与しなかった群を比較した結果でもって、抗癌剤の有用性を評価するのが合理的な態度である。「抗癌剤は毒物である」という一点のみで抗癌剤の有用性を否定するのは、「試し読みできない」という一点のみでシュリンクの(書店にとっての)有用性を否定するようなものである。



*1:基礎から学ぶ 楽しい疫学 第2版 P84

*2:あらゆる薬は毒物だ