NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

アメリカ合衆国では医療過誤について刑事責任を追及するか


小倉秀夫氏のわら人形論法っぷりは芸の領域まで達している。


不条理な脅しには屈してはいけない(la_causette)


 最初は、救急時の刑事免責だけかもしれないけど、次は一般的な業務上過失致死傷罪についての刑事免責、未必の故意ありの場合の刑事免責、確定的故意ありの場合の刑事免責、不法行為責任(債務不履行責任)からの民事免責、行政罰制度の廃止等へ要求をエスカレートさせていく危険はあります。最初の時に脅しに屈して、「個々の患者の生命<<<医療を受けられることによる国民全体の利益」ということで刑事免責を認めてしまえば、これらの免責を全部受け入れないという理由はなくなってしまいます。
 さらには、医療とは離れた犯罪ないし不法行為に関する民事または刑事上の責任の免除を医師たちが求めてきた場合にも、その要求に屈しなければいけなくなるかもしれません。「医師というのはストレスがたまるのだから、女性患者に対するいたずらくらい容認されなければ、到底やっていかれない。医師の大量逃散を防ぐためには、文字通り医師に包括的な免責特権を与えよ」と脅されたとき、一度その種の脅しに屈した社会はずるずると脅しに屈し続けることになるかもしれません。


医療者が無制限の刑事免責を要求しているわけではないことなど、まともな読解力を持った人間にはわかりそうなものなのに。そりゃあ、どこで線引きするかについて意見の不一致はあろう。たとえば、三重県の谷本整形における、点滴による院内感染事件が刑事罰にあたるかどうか。私にはこの件は擁護しようがない、刑事事件になっても仕方がないのではないかと(今のところは)思われるが、この件でも再発予防の観点から安易に刑事罰を課すべきではないとする医療者もいるかもしれない。ただ、意見が分かれたとしても、話し合いによって歩み寄りはできるであろう。

一方、あたかも医療者が未必の故意ありの場合の刑事免責、確定的故意ありの場合の刑事免責、果ては「女性患者に対するいたずら」までをも免責せよと要求するかのような物言いは、小倉秀夫氏が初めから話し合う気などまったくないことを示している。小倉秀夫氏のような「意見のみが弁護士の意見だと思うと他の弁護士の方に失礼に当たる」のだろうとは思うが。医療者が仮に、「大野病院事件で逮捕されるのを認めると、次は産科領域の死亡はすべて、次に科によらず死亡例はすべて、さらには死亡に至らない合併症、しまいには採血に失敗しただけで逮捕されるようになる」とでも主張してみたとしよう。小倉秀夫氏の論法がいかに愚かかよくわかる。

医療者が危惧しているのは、谷本整形における院内感染のような事例ではなく、大野病院事件のように、結果が悪ければたとえ水準以上の医療を行っていても逮捕されうる事例である。「医師が刑事訴追される確率は低いゆえに医療業界を崩壊させるかどうかは疑問である」という旨の主張を小倉氏は行っているが*1、死にうる病気を扱う科の医師が、「大野病院事件で逮捕されるのであれば、自分もいつ逮捕されるかわからない」と思うのは当然である。例外は、マスコミ相手に大口を叩くのを主な仕事としている自信家ぐらいだろう。

これが、臨床医を辞めたら無職になるというのなら、確率の低い刑事訴追に目をつぶって臨床を続けることもあろう。しかし、リスクの低い仕事を行うという選択肢もあるのだ*2。いずれはリスクの低い働き口も飽和し、報酬も下がってくるであろうが、今のところは、逆にドロップアウトしたほうが高給なぐらいだ。ドロップアウト先が飽和したそのときに、医療業界が崩壊していないなんてことがありえるだろうか。


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■医療過誤について刑事責任を追及するのは先進国では日本だけなのか、にも別の意見を述べておく。小倉氏は米国を「医療上のミスに関して医師等の刑事責任を追及する国」としているが、必ずしも法学の専門家で意見が一致しているわけではなさそうである。樋口範雄著「医療と法を考える―救急車と正義」によれば、



アメリカの研究者でこれまで数十年間,日米の医療と法の比較研究を行ってきたロバート・レフラー教授は,わが国における医療安全に関する法規制について,最も重要なアメリカとの相違点は,刑事司法が果たす役割の大きさであると述べる。彼によれば,福島の事件も都立広尾病院事件*3も,さらには横浜市大の患者取り違え事件ですら,アメリカでは刑事事件にならない。少なくともなる確率は相当に低い。民事訴訟になることは当然であり,看護師や医師の行政処分はありうるが,医療従事者は,事故の後,刑事手続きをおそれることはほとんどない。刑事事件になるとしたら,殺人はむろんだが,酩酊した医師や薬物常用者の医師が手術をするなどのきわめて限定された場合である。(P146-147)


日本の医療従事者も、殺人や酩酊した医師による手術について刑事免責は求めていない。福島大野病院事件が起こって初めて、刑事免責を求める声が大きくなったのだ。小倉氏が引用したイェール大学のEdward Monico博士と、ロバート・レフラー教授のどちらが正しいのか*4専門家ではない私には判断できないが、少なくとも「日本で刑事事件になるような医療事故でも、アメリカ合衆国においてはほとんど刑事事件にならない」と言っている法学の専門家が存在することは指摘しておく。


*1:URL:http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/06/post_3596.html

*2:参考:■「日替わりで…増加するフリーの医師」

*3:引用者注:点滴薬を取り違えて看護師が注入し患者が死亡した事件について、看護師が業務上過失致死罪で刑が確定、事後処理にあたった主治医、病院長、監督者たる東京都衛生局の看護師以外の当事者について、死亡診断書に虚偽の記載をしたとして虚偽有印公文書作成・同行使罪、医師法21条違反で起訴がなされた。同書P138より要約

*4:あるいは小倉氏もしくは樋口範雄氏の解釈が正しいかどうか