NATROMのブログ

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「利己的遺伝子説@南堂久史」

■利己的遺伝子と男の浮気に対して南堂さんから反論があった。南堂氏がこのエントリーに反論するのであれば、是非、誰がそのような主張をしているのか、具体的な引用とともにご教示いただきたいと書いておいたのだが、もちろんのこと具体的な引用はされていない。「利己的遺伝子説を信じる進化論学者は、こう主張することが多い」んでしょう?多いんなら、具体的に引用することも簡単でしょう?どうしてできないの?

さて、南堂さんによる反論は長いので、私が見所だけピックアップする。引用は■ドーキンス説をめぐる無駄論議2*1のコメント欄から。



彼のいいたいことは、「南堂の説は間違っている」ということではなくて、「南堂はドーキンス説を正しく引用していない」ということだ。要するに、私の考える利己的遺伝子説と、彼の考える利己的遺伝子説とが、違っている。ま、そんなことは、学問の世界では、よくあることだ。××派の考える概念と、○○派の考える概念とは、同じ用語であっても、違う概念になる。そういうことは、よくある。「利己的遺伝子説」という概念もまた同様。


で、彼の言いたいことは、ドーキンスの原著に書いてあるものだけが利己的遺伝子説であって、それ以外のすべては利己的遺伝子説ではない、ということだ。だから、私の想定する「利己的遺伝子説」というものが、ドーキンスの原著の通りではないからという理由で、「南堂はドーキンスを読んでいない」と結論する。


これを比喩的に言うと、われわれが微積分学を微積分の教科書で勉強したときに、この人物はこう批判する。
「あんたはニュートンもライプニッツも読んでいないじゃないか。だからあんたは微積分学を学んだことにはならない。微積分学のことを論じるのであれば、ニュートンをライプニッツを読んで、原著の該当するページを示せ」


要するに、こういう人には、「学問は歴史的にどんどん発展する」ということが理解できないのである。そして、古典文学の研究者のごとく、一番最初の原典を重視する。これはつまりは「原典主義」である。ただひたすら原典との異同だけを論じる。(テキスト校正学?)


多くの専門家は誤解している」という主張が、いつのまにか「××派の考える概念と、○○派の考える概念とは、同じ用語であっても、違う概念になる」に後退していますよ南堂さん。南堂さんは、単に概念が異なるというだけでなく、「ドーキンスの利己的遺伝子説を、誤解している専門家が多い」と言っていますよね。一方で、ブルーバックス等の解説書を読んだ一般人は正しく理解しているとも。「ある学説について、誤解している専門家が多い一方で、一般人のほうがむしろ正しく理解している」って、学問の世界でよくあることなんですか?

よろしい、私や多くの専門家が考える「利己的遺伝子説」と、南堂氏(およびブルーバックス等の解説書を読んだ一般人の一部)の考える「利己的遺伝子説」とは、違う概念であることは認めましょう。実際に、ぜんぜん違うもの。で、多くの専門家が「ドーキンスの説を誤解して」いて、南堂氏が正しく理解しているとする、その根拠は?微積分を微積分の教科書で勉強することは批判しないさ。だったら、進化生物学の教科書で勉強すれば?南堂さんのやっていることは、微積分の教科書すら読まず、ブルーバックスだけ読んで(しかもこのブルーバックスの著者は「数学的な論争を行うための基本的な態度に問題がある」などと専門家にダメ出しされていたりする)、「微積分を誤解している専門家が多い」と言っているようなものです。学問のレベルで論じたいなら、教科書ぐらい読んだほうがいいと思います。



私が念頭に置いている「利己的遺伝子説」は、ドーキンスそのものの説ではない。ドーキンスのがあとで広がったものだ、と見なしてほしい。だから、それがドーキンスの原著にないとしても、ごく当たり前のことだ。


で、そのようにして「利己的遺伝子説」と呼ぶのが気に食わないのであれば、「ここで言う利己的遺伝子説とは、ドーキンスの説そのものではなくて、そのエッセンスを取って発展させたものだ」と定義し直せばいい。その上で、「現代の利己的遺伝子説の論者は、(サイエンスライターの)××氏などである。利己的遺伝子説の創始者の座は、彼らのものである」とでも呼べばいいだろう。そういう馬鹿げたことをしたければ。
 で、その場合には、「ドーキンスは、今日の利己的遺伝子説には、何ら貢献していない。彼は利他的行動も何にも貢献していない」という、馬鹿げた結論になる。

「ドーキンスの説を誤解している専門家」にドーキンス自身も含まれるとした私の予想は正しそうです。南堂氏が念頭に置いているドーキンス説は、「あとで広がったもの」であり、「ドーキンスそのものの説」ではないわけですね。「あとで広がった」といっても、専門家の間ではなく、ブルーバックスを読んだ一般人の間でであり、多くの専門家から「素人はドーキンスを誤解している」と指摘されるような代物です。よろしい。そんなものを「利己的遺伝子説」と呼ぶのは気に食わないので定義しなおしましょう。

「南堂氏の言う利己的遺伝子説とは、ドーキンスの説そのものではなくて、ドーキンス説を勘違い・誤解したものを発展させたものだ」と定義し直しました。確かにそのような説の創始者は、竹内久美子であり、中原秀臣であり、南堂久史である。「利己的遺伝子説@南堂氏」には、ドーキンスは何ら貢献していません。ドーキンスがそんな説に貢献しただなんて、ひどい中傷です。



数学の定理を見たら、その定理(つまり結論)だけを見て、証明は見ない。証明はすべて自分で考え出す。自分の頭でゼロから作り出す。……これがまともな数学者のやり方だ。他人の業績をいちいち逐次的に理解することなんかはしない。エッセンスだけを知ったら、自分の頭で独力で構成するものなのだ。そして、そのあとで、自分の証明と、元の証明とを、照合する。(自分の証明が間違っていることもあるので、チェックするわけだ。)

ここだけ読んだらその通りですね。でね、南堂さんのステキ過ぎるところは、その証明は間違っているよと指摘されたところで、自分の間違いを絶対に認めようとしないところです。それどころか、「専門家の多くは間違っている。私が正しい」としちゃうのです。まさしく「完璧なる自己肯定。あらゆる批判の拒否」。それなんてブーメラン?というかドーキンスの件に関しては、途中の証明どころか、定理(つまり結論)からして間違っていたのですが。



社会生物学全般を構築するような偉大な業績を上げたのは、まさしくドーキンスであって、日本のどこかのサイエンスライターなんかではないのだ。

ウィルソン涙目。でも、「社会生物学@南堂氏」を構築する業績を上げたのはどこかのサイエンスライターだから。



一方、私は、ドーキンス擁護論者だ。ドーキンスの主張を、言外の意も汲み取って、多大に評価するとしても、そのことでドーキンスから文句を言われる筋合いはない。むしろドーキンスからは「私は本当はそう言おうと思っていたんですよ。書いていないことを理解してくださって、ありがとう。私の業績を正当に認めてくれて、ありがとう」と感謝されるだろう。

なにこの根拠のない自信。完璧なる自己肯定。それにしても、こういうことが許されるのであれば、今後、南堂氏の主張を、言外の意も汲み取って、特に引用もせずに多大に評価したら感謝してくれますか?

*1:URL:http://openblog.meblog.biz/article/41771.html