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医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か


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■医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か小松 秀樹 (著)

ずいぶん前に読み終えたのだけど、紹介するタイミングを失ってそのままになっていた。日本の医療崩壊については、医療者の間では何をいまさらという感があるが、一般の人々の間ではまだ十分に認識されていないかもしれない。医療者によるブログでは熱心に議論がなされているが、いかんせん、医療崩壊に興味のある人の間でだけである。私のブログには医療関係以外の方々もよく来られるし、特に最近は池田センセがらみで初めて来た人も多いだろうから、これを機に小松先生の著作を紹介することとする。

最近では、大手マスコミでも医療崩壊が扱われるようになった。毎日新聞では「医療クライシス」、読売新聞では「医の現場 疲弊する勤務医」など。マスコミは医療崩壊の主犯の1人であり、かような記事はマッチポンプであると医療者から思われているのであるが、まあ現状が報道されるのは良いことであろう。ぶっちゃけ簡単に言うと、医師、特に勤務医の勤務条件が劣悪になったため、医療の現場から医師が逃げ出している。これを小松先生は「立ち去り型サボタージュ」と言い、ネット上では自嘲気味に「逃散」と言う。

ネット上では何年も前より日本の医療が崩壊すると言われていた。医師によるブログもいくつもある(たとえば、id:Yosyanさんによる■新小児科医のつぶやき)。医療崩壊に興味のある人は既にこうした情報源にアクセスしていることと思うが、都会に住み、自分も身内も健康な人は医療崩壊などと言われても実感がわかないかもしれない。これから情報を集めたいが匿名でのブログは信頼性が低いと思われる人は、まず、『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』をお読みいただきたい。著者の小松秀樹は虎ノ門病院泌尿器科部長である。新聞記事に載っている医療者の主張はマスコミのフィルターを通しているため、医療者自身が書いた本のほうがよい。

この本を読まれても、一般の人は必ずしも納得がいかないかもしれない。特に、医師は高給でベンツなどの高級車に乗っており、金儲けのために不要な薬をバンバンだし医療ミスしたら平気でカルテを改竄する、などという偏見を抱いている人にとっては。納得いく、いかないは別にして、医療者側の主張も知っていてほしい。「医療は不確実であることが、患者や司法関係者にすら理解されていない。警察が医療過誤に介入しても解決にはならない。安全にはコストがかかるが、日本の医療費は減らされる一方である」など。医局制度や厚生労働省の問題点についても指摘がある。

ネット上や実生活での意見を耳にするに、一般の人たちと医療者との間での認識の相違点として、たとえば、医師の労働に対する考え方や、死生観があるようだ。たとえば、労働に対する考え方。小松先生の指摘は、もちろんすべての医師に当てはまるものではないが、大まかには当たっている。



私の目からみた勤務医の考え方と状況を説明する。勤務医は、社会と多少距離をおいて、自尊心と良心を保ちつつ仕事をすることを望む。医療にささやかな誇りと生きがいを感じており、医師の仕事を金を得るための労働とは考えていない。ただし、先頭に立って社会を引っ張るような迫力や、強い使命感のようなものはない。他からの賞賛よりも、自らが価値があると思うことが重要だと考えている。収入も、普段の生活でお金の苦労をするようなことがなければよいのであって、必ずしも多額の報酬を望んでいるわけではない。仕事で自分の価値観に反するようなことをせずにすみ、それなりに生活できればよいと思っている。(P158)


医師免許を持っていれば楽で稼げる仕事は他にもある。逮捕された偽医者の年収が2000万円だと報道されたが、偽医師でも2000万稼ぐのだから、本当の医師にしかできない仕事はもっと高給であると考えるのは誤りである。偽医者でもできるくだらない仕事だから、高い金を出さないと誰もやりたがらないのである。循環器科の医師は、夜間であろうが正月であろうが、急性心筋梗塞の患者がいれば(むしろ嬉々として)出勤してくる。時間外手当はすずめの涙である。その二十倍出すから風邪の患者も診ろと頼んでも断るだろう。医師であるから時間外に働かなければならないのは重々承知であり、時間外の心肺停止の患者に全力を尽くすことはかまわない。しかし、緊急性のない、たとえば4日前からの微熱で夜間に受診した患者からの待たされたというクレームに対処するのは医師の仕事ではない。他に仕事の口がないなら我慢して「申し訳ございません、患者様」と頭も下げるが、他にもっと楽で高給な仕事があるならがそちらに流れるのは当然である。「医は算術」などと揶揄されるが、「医療もサービス業だろう」などと過剰なサービスを要求するのに、「医は仁術」をも要求するのは一方的である。

死生観についても、一般の人と乖離があるかもしれない。大家族で平均年齢も短かった昔のころであれば、身近な人の死に接する機会も多かったと思われるが、核家族化が進んだ現在では、一般の人にとっては死は非日常であり、受け入れがたいものである。



補償の条件を低くして、避けようのない死まで補償の対象とすべきでない。病院での死、自宅での死を平等に扱う必要がある。病院で死ぬと補償金が得られるとなると、病院の医療がゆがんでくる。また、家族の成り立ちがゆがんでくる。それ以上に、死生観がゆがむ。すべての死が補償の対象となるということは、死があってはならないことだと認定するようなものである。いくら認定しても、死は厳然と存在する。あってはならない死は恐怖の対象となり、冷静に受け入れられることがない。死は、現世のすべてを無にするという意味で人間を平等にする。死ほど人間の平等を明確に示すものはない。死を受け入れることで、個人の欲望の空しさが実感でき、行動が律せられる。死を受容しないと、死への恐怖とあくなき欲望が人間の行動を醜くする。恐怖と欲望がひしめき合い争いが絶えない。死を受容する思想がなくなれば、日本人の将来が危うくなる。(P248)


不可避な死に対しても賠償金を請求される事例が多発していることを医師は憂慮している。正当な医療を行なっても、結果が悪ければ賠償金を請求されるのであれば、結果が悪くなりうる疾患を診る人がいなくなる。一方、患者側には「治して当然。治らなかったら医者の責任」と考える人がいる。もちろん、多くの患者さんはそうは考えないが、一部にそういう人がいるというだけで医師を逃げ出させるには十分である。

医療崩壊を止める手段はあるだろうか。紛争を処理する第三者機関の設立や適正な社会思想の熟成などの解決案が小松先生によって提案されている。おそらく、どのような手段をとろうとも、根本的な原因、つまり、医療費抑制政策を改めなければ問題は解決しないと私には思われる。いまだに医療崩壊へまっしぐらの状態であるが、危機感が共有されないと医療崩壊は避けられない。というか、既に崩壊しはじめている。身内も自分も元気であるうちは無関係でいられるが、病気はいつなんどき罹るかわからないのだ。