NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

脳科学者と遺伝学

池谷裕二という「生物系研究者」、脳科学者であるらしいのであるが、VISAカードの月刊誌に、血液型と性格の関係を示唆する文章を載せている(★Tadの秘密の日記★経由)。「(赤血球の表面の糖鎖が異なるから)毛細血管の血球の流れやすさが異なり、酸素供給効率に影響があることは想像に難くない」「血の巡り具合が違うのであれば、脳の生理作用に差があっても不思議ではないと考える人もいるだろう」というところぐらいまでは、突っ込みどころがないわけでもないが、まあよいだろう。 問題は、池谷氏の遺伝学の理解のほどである。


私が気になるのは、血液型の人口分布である。地域によって差があるものの、おおざっぱに言えば日本でほぼA型40%、O型30%、B型20%、AB型10%である。私にはこの比が安定な平衡点からひどく偏っているように思えるのだ。そこでコンピュータ・シミュレーションを行ってみた。1000人の村を作り、右記の割合で血液型を振り分けてみる。村の中からランダムに相手を選んで結婚し、それぞれ2人ずつ子どもを作っていくとしたら、血液型の分布は将来どう変化していくだろうか。
シミュレーションであるから試行によって多少結果は異なるが、何度も繰り返した結果、一つの傾向が見えてきた。無秩序な交配を続けていくと1000世代、つまり2万年ほどでO型がほぼ滅んでしまうのだ。

との結果。何をどうしたらそのような結果になるのか。おそらく、シミュレーションにバグがあるのだろう。後述するように、池谷氏は優性/劣性遺伝という概念を理解していないように思われるが、その辺に問題があるのではないか。



A型やB型が優性遺伝であることを考えれば、この結果は確かに頷ける。

生存に有利/不利と、優性/劣性というのは異なる。混同しやすい誤りであるが、遺伝学の基礎の基礎であり、高校の生物の教科書にも載っている。



つまり人類の長い歴史を考えれば、現在の人口比でO型は多すぎるし、逆にAB型は少なすぎる。これはとりもなおさず、血液型同士には相性があって、私たちの祖先が決して結婚相手を無作為に選んできたわけではないことを意味してはいないだろうか。

別に意味していない。現在のような血液型比は、特定の血液型が特に生存に有利なわけではないことを示唆しているように思われる。また、日本におけるABO式血液型については、ハーディ・ワインベルグ平衡が成立していることが知られている。もし、ABO式血液型について任意交配ではなく、特定の血液型同士のカップルが多いのであれば、ハーディ・ワインベルグ平衡が成立するとは限らない。たとえばO型とAB型のカップルが多ければ、遺伝子型がAOとBOの人が遺伝子頻度から予測されるよりも多くなり、ハーディ・ワインベルグ平衡は成立しなくなる。


というようなことをmixiでネタにしたのが今年の4月ごろ。同時に、池谷氏に上記のようなことをメールした。最近、妻が池谷氏の■脳はなにかと言い訳するという本(2006年9月第1刷)を買ってきた。VISA誌のエッセイを元にさらに解説を加えたものである。読んでみたところ、いまだに池谷氏は私の指摘を理解していなかった。さすがに、「A型やB型が優性遺伝であることを考えれば、この結果は確かに頷ける」という部分は削除してあった。シミュレーションの結果は、月刊誌に載った時点では「O型がほぼ滅んでしまうのだ」とあったが、単行本ではなぜか「徐々にB型かO型のどちらかが減っていくのだ(P201)」となっていた。解説には



私はコンピュータ・シミュレーションを行って、血液型の分布がどんどん変わっていく結果を得ました。
ところが、そのデータは、学校の授業で遺伝学を学んだ人からすると奇妙に映ります。遺伝学には、ある一定の条件さえ満たせば、世代を経ても分布は変わらない、つまり平衡状態を意味する有名な「ハイディー・ワインバーグの原理*1」があります。この原理からすると、A型、O型、B型、AB型の分布は世代を経ても変わらないことになるからです。
しかし、私のシミュレーションのデータでは変化しました。B型がO型の比率が少しずつ減っていったのです。(P203)

とあった。たぶん、私のメールを読んでのことであろう。集団の大きさが有限であるなら、程度はともかくとして、遺伝的浮動によって血液型の比率が変化するのは当然である。ただし、各血液型で有利/不利がなければ、B型やO型だけが減るということはない。A型が減少したり、消失したりすることだってある。初期状態の遺伝子頻度が少ないほど消失しやすいから、傾向としてB対立遺伝子が消失しやすいというのならわからないでもないが、一番遺伝子頻度の多いO対立遺伝子が消失しやすいというのは解せない*2。やはりシミュレーションのバグとしか考えられない。

単行本で「苗字の数がどんどん減っていき、最後には一つだけになる」というシミュレーションの例を出しているところを読んで初めて気がついたが、池谷氏が「安定な平衡点からひどく偏っているように思える」と書いたのは、ハーディ・ワインベルグ平衡からのずれを指しているのではなく、有限な集団では長期的には遺伝的多型が無くなるはずだと言いたかったらしい。池谷氏の理屈で言うと、遺伝的多型のある遺伝子座なんぞABO式血液型以外にもごまんとあるが、そのすべてにおいて「相性があって、私たちの祖先が決して結婚相手を無作為に選んできたわけではないこと」を考えないといけない。むろん実際には、遺伝的多型のほとんどは相性ではなく突然変異や頻度依存淘汰によって説明できる。池谷氏による単純化されたモデルでは説明できない。

私が読んだ限りでは、単行本の他の部分はまともなことが書いてあり、しかも面白い。いったいなぜ遺伝学について池谷氏がおかしな結論に至ったのかわからない。


*1:原文ママ。ハイディーて誰?

*2:実際の血液型の頻度は表現型の頻度であり遺伝子頻度と異なることに注意