NATROMのブログ

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生物=生存機械論

大学生の頃は、勉強さえしていれば他の時間は何でも好きな事をして過ごせるという、まことに幸せな時代であった。時間はいくらでもあったので、かたっぱしから本を読んでいた。その本に出会ったときのことは今でも覚えている。読むべき本はないかと古本屋の棚を物色していて見つけた。最初の数ページを読むと、けしからぬことが書いてあった。ローレンツは、利己主義と利他主義の生物学について、「全面的にかつ完全にまちがっている」とあったのだ。


生物=生存機械論目が怖い
「生物=生存機械論」 ダサい邦訳
怖いよ!その目!

前回のエントリーで触れたが、「ソロモンの指環」から多大な影響を受けた当時の私はローレンツを高く評価しており、アシモフ、セーガン、ファインマンらと同じく「信頼できる科学者のリスト」に入れていた。ローレンツを間違っている(それも「全面的にかつ完全に」)と書いているこの本はなんなのだ。このドーキンスとかいう奴は信頼できるのか。読む価値があるのか。迷ったあげく、結局は買った。訳者の一人に、「ソロモンの指環」を訳した日高敏隆の名前があったのも、少しは読んでみようかという気にさせた。

この本のほうが間違っているにちがいないと思いつつ読みはじめたのだが、間違いを発見することはできなかった。生物個体は「種の保存」のためではなく、「自らの遺伝子の保存」のために行動しているという主張のほうが正しいように思われた。完全にドーキンスの言い分が正しいと認めたのは、レミングの「自殺」についての説明を読んだときである。従来は、個体が増えすぎたレミングは、種が滅びないように個体数の調節のため、自ら死を選ぶのだと説明されていた。


また、個体数の激増に際して、繁殖の中心地域から幾百万の大群をなしてあふれ出してくるレミングたちも、彼らが立ち去ってきたその地域の個体群密度を減少させるためにそうしているわけではない。彼らは、もっと密度の低い生活場所を探し求めているのだ。利己的存在たる彼らの一頭一頭がそうしているのである。特定の個体をとれば、彼は新しい生活場所を発見できずに死んでしまうかもしれない。しかしこれは、結果がでてからわかることだ。そしてこの事実も、次の可能性を変更するものではない。すなわち、元の地域に残留することはもっと分の悪い賭けだったにちがいないということである。

これまで正しいと思っていたことが実はまったくの間違いであったと思い知らされる経験はなかなかない。無論、昔は何か勘違いしていたよなあなんてことは多々あるが、たいていの場合はいろいろな人の意見を聞いていつのまにかなんとなく自分の考えを修正していくものだ。ある一冊の本が全面的な転向を引き起こすなんてことは珍しいと思う。後に、ドーキンスが、ローレンツと一緒にノーベル賞を受賞したニコ・ティンバーゲンの弟子であること、(表現についてはともかく)本の内容についてはオーソドックスなものであることを知った。