NATROMのブログ

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性比の科学


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■雄と雌の数をめぐる不思議 中公文庫 長谷川眞理子(著)

例の理系保守とのやり取りで必要になって引っ張り出して、久しぶりに読んでみた。山形浩生は、長谷川眞理子を「生真面目で正確で好感は持てるものの、優等生的で面白みに欠ける説明」と評していた*1けど、なかなかどうして面白かった。

今回読み直した目的は、ヒトにおいて性比の調節がなされているかどうかを知りたかったから。例外はあるものの、多くの種において性比はほぼ1:1であり、その理由はフィッシャーによって説明されている。たとえば集団に雌が多ければ、雄の子を多く作る個体は多くの孫に恵まれるがゆえに繁殖に成功する。その結果、集団内の雄の比率は多くなり、性比が1:1になったところで安定する。進化的に安定な戦略という奴だ。「利己的な遺伝子」のP229〜あたりでも説明されている。1:1の性比は、淘汰の単位が個体もしくは遺伝子であると考えると容易に説明がつく。厳密には雄の子と雌の子に対する親の投資量が等しいとか、集団内でランダム交配されているとか、いくつかの条件がつくが、その辺は実際に本を読んで欲しい。

大枠としての1:1の性比はフィッシャーによって説明されるが、環境によって個体が子の性比を調節しているかどうかは、種ごとに検証すべき問題である。たとえばセイシェルヤブセンニュウという鳥は、環境によって子の性比を調節している。この鳥は生育地の環境が悪いと雄を多く、環境が良いと雌を多く産む。自分のなわばりが持てないときに雌の子は親元に留まってヘルパーとなるが(息子は留まらない)、環境が悪いと親と資源(餌となる虫)をめぐって競争が起こり、かえって親の繁殖成功度を下げる。そこで環境が悪いときは息子を産んだほうがまだ分がいい。

「環境が悪ければ息子を産め。環境が良ければ娘を産め」という条件付戦略をセイシェルヤブセンニュウを採用しているわけだ。鳥だけではなく、哺乳類でもかような条件付戦略を採用している種もある。では、ヒトではどうだろう?ヒトにおいて性比が(それほど)偏っていないのは、何らかの調節機構が働いているのか?それとも、環境とは無関係に、出生比率がほぼ1:1であるからか?第6章でヒトの性比について述べれられている。戦争によって男が多く死んだときに、それを補うように男児が多く生まれるかどうかを、アメリカ、イタリア、日本のデータで検証されている。アメリカとイタリアは微妙(偶然の変動か?)、日本においては、戦争後にとくに出生性比が男性に偏るという現象は見られなかった。

他にもさまざまな研究が紹介されているが、結論は、ヒト集団において、出生性比を調節するような生物学的な機構が存在するという明らかな証拠はないようだ。乳児死亡率の低い国では男児の割合が高い傾向があるが、進化生物学的な出生性比調節の結果というよりも、母親の健康状態が良いと男児の受精卵の救われる率が上がるためと、長谷川は考えている。生物学的な要因よりも社会的な要因がヒト集団の性比に影響を与えているようだ。子殺しや選択的中絶、そこまでいかなくても子育て中の性差別により、結果的に偏った性比が生じてしまう。日本においては、1900年から1935年にかけて女子死亡率が過剰であったが、戦後は急速になくなり、1953年以降はどの年齢においても女子死亡率の過剰は一切見られなくなったそうである。

性比という一つのトピックで、性染色体などの至近要因から、進化的に安定な戦略、条件付戦略といった進化生物学の話題、性差別といった人間社会に特有の問題まで論じている良書である。

*1:(竹内久美子:女のオヤジ(URL:http://www.post1.com/home/hiyori13/takarajima/takeuchi.html)。なぜか現在リンク切れURL:http://cruel.org/takarajima/takeuchi.html