NATROMのブログ

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乳がん術後の「抗がん剤ストップ」のリスクはどれぐらい?

女優の南果歩さんが、ステージIの乳がんの手術および放射線治療後の抗がん剤をストップしていることを明かしたという報道があった。



■南果歩「見本にして」抗がん剤ストップ中と明かす (日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース


 南はステージ1の乳がんと診断され、昨年の3月11日に手術を受けた。転移はなく、現在までに再発の兆候もないという。

 現状について聞かれると「今、ハーセプチンという抗がん治療をストップしています。抗女性ホルモン剤の投薬もストップしています。これは俗に言う、代替治療に切り替えたということです」と打ち明けた。続けて「私のやり方はひとつの症例であって、皆様に当てはまるものではないかもしれません。こういう考え、治療法があるんだと、表に出る仕事をしているので、分かりやすい見本になると思うんです」と、現状を明かした理由について語った。



ハーセプチン(一般名:トラスツズマブ)は、HER2と呼ばれる蛋白質に対するモノクローナル抗体である。HER2を発現しているがん(特に乳がん)に対する抗がん剤として使われる。一般の方々がイメージする抗がん剤(細胞障害性抗がん剤)のように髪の毛が抜けたり血球減少が起こったりはしにくい。

HER2陽性の乳がんの手術後に、再発リスクを下げることを目的にハーセプチンを使うのは標準医療である。術前に使ったり、他の抗がん剤と組み合わせて使ったりすることもある。ハーセプチンを使うことで、再発や乳がん死をだいたい3分の1減らすことができる。よってハーセプチンをストップすることで再発や乳がん死のリスクは上がると思われる。

とは言え、ハーセプチンを中止したことが間違った選択だとは言えない。医療にはメリットと同時にデメリットもあり、メリットとデメリットを比較する必要がある。報道からは限定的な情報しかないが、ステージIでもともと再発や乳がん死のリスクは高くない。また、血圧が「100くらいだったのが160に」になったという。収縮期血圧のことだと思われる。ハーセプチンには心毒性という副作用があり、高血圧は心不全のリスク因子になりうる。私は乳がんの専門家ではないが、降圧薬を併用しながら注意深くハーセプチンを継続することを勧めるが、患者さんが降圧薬に対して消極的ならば乳がん再発リスクを承知でハーセプチンを中止するという選択肢も十分にある、といったところではないかと思う。

リスクを正確に定量するのは難しい。日本人女性のステージIのHER2陽性の乳がんの手術後にハーセプチンの有無でどれぐらい予後が変わるかを示した直接の研究は発見できなかった。代わりにコクランの早期乳がんに対するハーセプチンを含んだレジュメのレビューを紹介する。■Trastuzumab containing regimens for early breast cancer - Moja - 2012 - The Cochrane Library - Wiley Online Libraryによれば、HER2陽性の乳がんの手術後の患者1000人に、ハーセプチンなしの治療を行うと、おおよそ数年間の間に900人が生存し5人が心不全を起こす。一方、ハーセプチンありの治療だと933人が生存し(33人がハーセプチンのおかげで助かった)、26人が心不全を起こす(21人がハーセプチンの副作用)。ただし、心毒性の副作用はハーセプチンを中止すると多くが元に戻る。

乳がん再発予防の効果(1000人中95人がハーセプチンのおかげで再発しない)も合わせると、メリットはデメリットを上回ると言える。だから、ハーセプチンはHER2陽性乳がんに対する標準医療として採用されている。ただし、これはステージIのみではなくより再発のリスクの高いステージの乳がんを含んだ数字である(局所進行乳がんまで含む)。また、高血圧という心不全のリスク因子を持たない人が大半であろう。

乳がん死や再発リスクが小さいステージIに対してはハーセプチンのメリットは相対的に小さくなるし、高血圧があると心不全のリスクは高くなる。患者さんの価値観次第ではハーセプチンを使わないのも十分に合理的である。コクランのレビューでも冒頭に"there are potential cardiac toxicities which need to be considered, especially for women at lower risk of recurrence, or those at increased cardiovascular risk.(再発リスクが低いまたは心血管系リスクの高い女性については特に、考慮を要する潜在的な心毒性が存在する)"とある。

南さんはサプリメントや糖質制限などの代替医療を行っているという。「代替医療を行うからハーセプチンを止めた」のであればリスクを十分にご理解していたのか心配だが、主治医ともじっくり話し合って、セカンドオピニオンやサードオピニオンも受けたというから、その点は問題はないであろう。

将来、南さんの乳がんが再発しないとしても代替医療のおかげではない。代替医療を行わなくても、もともとステージIの乳がん術後の予後は良いからだ。また、(そうならないように願っているが)運悪く再発したとしてもハーセプチンを中止したからだとは必ずしも言えない。ハーセプチンを使っていても再発するときはするからである。

がん手術後の抗がん剤のメリットやリスクは人それぞれである。薬を飲むのを好まない人もいるだろうし、がんの再発リスクが減るなら多少の副作用は我慢できるという人もいるであろう。それは個別に対応するべきである。