NATROMのブログ

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作業員の自己造血幹細胞の事前採取の是非は誰にもわからない

大量被ばく時に備え、福島第一原発の作業員の造血幹細胞を事前に採取・保存しようとする提言がある。仮に大量被ばくが起こった場合、あらかじめ自己造血幹細胞が保存されていれば、治療の選択肢が増え、患者のメリットになることはほぼ間違いない。しかし一方で、造血幹細胞の採取はほぼ安全であるとは言え、リスクが皆無というわけではない。また、造血幹細胞を採取する処置によって、原発での作業に伴うリスクが増える可能性がある。造血幹細胞の事前採取をしたほうがいいかにどうかについては、不確定要素が大きく、現時点で結論を出すことはできないと私は考える。

造血幹細胞とは何か?なぜ大量被ばく時に造血幹細胞移植が必要なのか?

血液中に含まれる細胞成分(白血球、赤血球、血小板)を、血球と呼ぶ。すべての血球は、造血幹細胞という細胞に由来する(図)。血球には寿命があるが、造血幹細胞が分裂・増殖し、適宜それぞれの血球に分化することで補給される。一般的に、分裂・増殖が盛んな細胞であるほど、放射線への感受性が高い。そのため、大量被ばくの際に、造血幹細胞は障害を受けやすい。500ミリシーベルトの被ばくで「リンパ球の一時的な減少」があると言われている。




それ以上の被ばくでは、「一時的な」減少では留まらないこともありうる。造血が障害されたとき、造血幹細胞を移植することによって造血機能は回復しうる。1999年のJCOの臨界事故では、高線量被ばく患者3名のうち2名に幹細胞移植が行われた*1。大量被ばくで障害を受けるのは、造血幹細胞だけではないので、造血幹細胞をすれば必ず助かるというわけではないが、それでも助かるチャンスは増えると考えられる。

急性放射線障害の場合は、他人の造血幹細胞より、自分の造血幹細胞のほうが望ましい

JCO事故では、自分の造血幹細胞ではなく、他人の造血幹細胞を移植された。他人(血縁者含む)の造血幹細胞を移植すると、移植片対宿主病(graft versus host disease: GVHD)という合併症が起こりうる。他人の造血幹細胞由来の免疫細胞は、宿主(レシピエント)の組織を攻撃してしまうからだ。移植片対宿主病は、免疫抑制剤やステロイドで治療するが、ただでさえ感染しやすい状態なのだから、そのような薬は使いたくない。急性放射線障害の場合は、もし利用可能であれば、移植片対宿主病を避けるために自己造血幹細胞移植のほうが望ましい*2

自家造血幹細胞の事前採取にはリスクがあるかもしれない

かといって、「だったら早急に作業員の造血幹細胞を採取すればいいじゃないか」、という単純な話にはならない。金銭的なコストは約20万円というが*3、これはこの際無視していいだろう。問題は、自己造血幹細胞の採取はすでに確立された手法であるものの、潜在的なリスクがゼロではないことだ。自己造血幹細胞の採取には、G-CSFという白血球を増やす薬を使う。薬である以上、副作用はある。軽微な副作用は骨痛や発熱や頭痛などである。重大な副作用(アレルギーによるショック、間質性肺炎など)も、稀ではあるがゼロではない。また、健常人に対する長期(数十年以上)の安全性については確認されていないとされている*4。ただし、単なる造血幹細胞の採取だけなら、リスクはゼロではないというだけで、きわめて小さいと言っていい。

しかし、G-CSF(白血球を増やす薬)の使用後に低線量の被ばくを受けるのは、白血病などのリスクを上げるかもしれない。G-CSFは、一時的にではあるが、造血幹細胞の増殖を促進し、理論的には放射線に対する感受性を上げる方向に働くからだ。原発の作業員の被ばく線量の上限基準は250ミリシーベルトである。250ミリシーベルトの被ばくでは、造血幹細胞移植は不要であるが、白血病のリスクは上がるレベルである。被ばく線量が250ミリシーベルト以下に留まるのであれば、自家造血幹細胞の事前採取は潜在的なリスクを上げるだけで、メリットはない。G-CSFの使用が本当に低線量の被ばくのリスクを上げるかどうかは、誰も知らない。そのような疫学調査はなされたことがない。また、今回の原発の作業において、250ミリシーベルトの被ばくを大きく上回り造血幹細胞移植が必要になるほどの被ばく事故が起こるかどうかも、誰にもわからない。

個人的な意見

個人的な意見を述べる。作業員の自己造血幹細胞の事前採取に本当にメリットがあるかどうかはわからないが、選択肢としては提示されるべきである。リスクが不明であるということを含めたインフォームドコンセントがなされ、作業員がそれぞれ、自家造血幹細胞の事前採取を行うかどうかを選択できるのが望ましい。費用は東京電力もしくは政府が負担する。G-CSFによる造血幹細胞動員の直後の被ばくは、造血器由来の腫瘍性疾患の潜在的なリスクを上げる可能性があるため、可能なら、自己造血幹細胞採取後、作業に従事するまで一定の期間を空ける。当たり前のことであるが、事前採取してあるからという理由だけで、被ばく線量の上限を超えて働かせさせることがあってはならない。

作業員の労働環境は劣悪だと聞く。そもそも、自己造血幹細胞の事前採取以前に、食事や睡眠などの環境を改善するべきであろう。また、内閣府の原子力安全委員会が「造血幹細胞の事前採取は不要」と判断したことに対する憤りもみられる。しかし、仮に政府が事前採取を推奨し、事前採取に伴う合併症が起こったら、「御用学者が未知のリスクを軽視して作業員を実験動物扱いした。学術的コンセンサスを無視してマスコミ主導で、なし崩しに事前採取を決めた」などと言われそうだ。


関連リンク集

自己造血幹細胞の事前採取の是非について、参考になるサイトを紹介する。

虎の門病院血液科の谷口修一先生による。事前採取を推進する立場の専門家の意見。


学会からの声明は、全面的な事前採取推進でないことに注意。「念のために自己造血幹細胞保存が望ましいとされた場合、学会はその医学的、社会的妥当性を検討した上協力します」(強調は引用者による)。


骨髄移植・被曝治療の専門家である米国人医師、ロバート・ゲイル博士は、「チェルノブイリや東海村を含む複数の原発事故における経験から、自家移植のための幹細胞の採取をやるとしてもごくわずかの効果しかないでしょうし、かえって思いがけない副作用をもたらすかも知れません。私はこの方法を勧めません。むしろ、作業員の方々が高線量の放射線を浴びないように警戒することで彼らの健康を保護することを勧めます」と述べている。専門家の間で意見が分かれる議論があるのは当然のことである。異なる専門家の意見にアクセスできるのは望ましいことだと考える。


日本骨髄バンクによる説明書。今回の事前採取は、骨髄採取ではなく、末梢血幹細胞採取に相当する。特に、「骨髄または末梢血幹細胞提供者 となられる方へのご説明書」は、末梢血幹細胞採取がどのようなものか、一般の人向けのわかりやすい資料である。幹細胞移植について、何か貢献したいという人は、日本骨髄バンクに募金(■骨髄バンク | 募金ご協力のお願い コンテンツ一覧)することをお勧めする(ドナー登録もいいが、希望者が殺到するとかえって迷惑になるかもしれない)。


*1:■JCO事故の教訓―医学的側面― - 緊急被ばく医療研修

*2:白血病の治療としてなされる造血幹細胞移植の場合は、他人の造血幹細胞を使うことで、宿主(レシピエント)の腫瘍細胞に対して攻撃するという利点もある。移植片対白血病(GVL)効果という

*3:■【放射能漏れ】「造血幹細胞採取は不要」と原子力安全委 作業員の命より政治的配慮か+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

*4:■骨髄または末梢血幹細胞提供者 となられる方へのご説明書(PDFファイル、日本骨髄バンク)