NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

HIVキャリアを理由に看護師を解雇することは正当か?

あなたは、ちょっぴりロリータ風味の2次元エロ同人誌をささやかな趣味として楽しんでいる成人男性だとしましょう。現実に被害者が存在する児童ポルノには手を出さないし、興味もありません。当たり前のことですが、現実の未成年の女の子に手を出すつもりもありません。大っぴらにすることではないですが、誰にも迷惑をかけるでもありません。ところが、ある日、職場(小売業とでもしましょう)で盗難事件があり、あなたに断りもなくあなたのカバンが調べられ、たまたまエロ同人誌が見つかってしまいました。上司は、


「当店では小学生のお子さんも来店する。うちでは仕事を続けさせることはできない。他の理解ある企業に面倒を見てもらっては」


と、それとなく退職を迫ります。2次元エロ同人誌を所持していたというだけの理由で、退職を迫るのは正当なことでしょうか?


「2次元エロ同人誌所持者が、小学生に性的いたずらをすることは当然ありうることだよね」
「顧客の立場になってみろ。偏見とかじゃなくて、襲われるリスク億が一でもあるんだから」


可能性だけをいうならばあるでしょう。しかし、2次元エロ同人誌を所持しているだけでは、小学生にいたずらをするリスクはきわめて低いでしょう。それに、他の人もエロ同人誌を所持しているかもしれませんし、レイプもののAVを好んでいるかもしれませんし、もしかしたら児童ポルノだって所持しているかもしれません。職員の性的嗜好を調べ、特定の嗜好を持つ人を排除することは正当でしょうか?


「小売業の集客は評判が全てだろ。辞めてくれって言うのは妥当だろ」
「勤務を認めるなら、店舗名と本人の姓名をきちんと公表しろよな。 顧客側に店舗を選ぶデータをちゃんと提供しろ」
「顧客に不安感を与え、業務に支障を与える」
「どうしても働くといなら私はロリコンですって首からプラカードを下げてやれ。顧客には安全に買い物する上で知る権利がある」
「合理的差別だからしょうがないな」


顧客に害を及ぼす可能性がなくても、単に風評被害があるという理由で、解雇することは正当でしょうか?



さて、本題です。「エイズウイルス(HIV)感染が判明した三十代の看護師が退職に追い込まれていた」というニュースが、痛いニュース(ノ∀`)で取り上げられていました。


■HIV感染の看護師「病院から退職を強要された」 病院「退職を求める意図はなかった」(痛いニュース(ノ∀`))


看護師と病院側によると、看護師は昨年九月、勤務中に過労で倒れ、院内で治療を受けた。その際、病院側は本人に断らずに採血検査をし、HIV感染の疑いが判明。翌日、看護師は 別の医療機関で詳細な検査を受け、感染が確定した。エイズは発症していない。

看護師は、別の病気を理由に休暇を取った後、同十月中旬に感染確定の診断書を持参。最初は主に副院長と、二回目からは当時の職場だった施設の副施設長と数回、就労について話し合った。

その際、看護師は治療後の職場復帰に支障がないことを明記した診断書を示したが、副施設長は「うちでは看護職は続けられない。運転や配膳(はいぜん)の仕事はあるが、差し迫って人が必要なわけではない。他の理解ある病院に面倒を見てもらっては」と発言。看護師は同十一月末、副施設長に「退職を強要されたと受け止めている」と伝え、辞表を提出した。


私は当初、「痛い」のは、本人に無断でHIV感染の検査をした上で、退職を強要するような発言をした病院側であると思いました*1。私の予想した2ちゃんねらーの反応は、


「病院幹部のくせにHIVの感染力も知らない情報弱者 m9(^Д^)プギャー」


というものでした。ところがコメント欄を読んで驚愕すると同時に絶望しました。多くのコメントは、病院による解雇は正当なものであるという主旨でした。これらの反応の多くは、おそらくはHIVの感染力についての知識不足に由来するように思われます。日常生活では感染しないのはもちろん、採血、点滴、傷の手当て等の、看護師が行う一般的な処置でHIVが感染することはありません。医療従事者から患者へのHIVの感染の事例はきわめてまれながらありますが、胸部心臓外科、産婦人科、整形外科などの特殊な専門領域に限ります*2

ゼロリスクを求めることも、過剰な反応の一因のようです。患者に刺した針をうっかり自分に刺すというミスはありえても、まず自分に刺すというミスをしてさらに患者に刺すというミスを重ねることはありえないように私には思えますが、なるほど、確率はきわめてゼロに近いものの、ゼロではないでしょうね。私が不思議に思うのは、HIVキャリアの看護師からの感染を恐れる人は、HIVよりも感染力が強く、キャリアも多いB型肝炎についてはどのように考えているのでしょう。もちろん、感染のリスクを最小限にするために、B型肝炎ワクチンを打っているのでしょうね。喫煙はもちろんしていないし、適度な運動はしているし、肥満もしていないでしょう。合理的にものを考える人ならば、HIVキャリアの看護師からの感染というごくごく小さなリスク(私は事実上、ゼロだと思う)を気にするのに、よく知られている大きなリスクを放置しているなんてことはないでしょうから。

仮にリスクが無視し得るほど小さいとしても、風評被害があるがゆえに、解雇は正当化されるという主張もありました。これは、典型的な差別の一形態です。「当社では黒人は採用しません。もちろん、黒人が白人より能力が劣っているなどという差別意識は当社は持っていませんが、まだまだ差別意識を持っているお客さまもいらっしゃいますので」というわけです。あるいは、もっと具体的な事例を出すのなら、ハンセン病元患者宿泊拒否事件です。感染力がないにも関わらず、「他の宿泊客への迷惑」を理由として、宿泊拒否されたのです。

もしかしたら、「ハンセン病元患者の宿泊拒否も容認できる」と考えている人もいるかもしれません。HIVキャリアやハンセン病の人の立場は、なかなか想像できないと思います。なので、冒頭のエロ同人誌の所持を理由に差別されたというたとえ話を考えてみました。「エロ同人など私は読まない。ロリコンは差別されて当然」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、病気は人を選びません。たとえば、B型肝炎のキャリアの人の割合は、年齢層にもよりますが、日本人集団では1〜2%ぐらいです。「解雇やむなし」と書きこんでいた人でも、調べてみたらB型肝炎キャリアだった、なんてことがあるかもしれません。感染症に限らず、今後、差別的な扱いをされる病気になるかもしれませんよ。

私は、なるべく差別はしないようにしています。差別が普通にある社会は嫌です。なぜなら、いつ何どき、自分が差別される側に立たされるか、わかったものではないからです。たとえば、私が排菌している肺結核にかかったら、これは仕方がありません。隔離されて、感染力がなくなるまで、大人しく治療を受けます。これは差別ではありません。でも、HIVに感染しただけで解雇されたら困ります。血液への暴露が多い外科手術はできなくなりますが(今もやってませんが)、「不安感を与える」という理由だけで、患者に感染させるリスクのない医療行為まで禁止されたくはありません。不安があるのは、感染症について無知だからです。このエントリーが、少しでも不安を解消できることに貢献できれば嬉しいです。

「HIVキャリアの看護師が働く病院には受診したくない」というコメントがありました。気持ちはわかりますが、私はまったく逆に思いました。HIVキャリアというだけで看護師を退職させる病院には私は受診したくありません。病院側がHIVの感染力について知らないのなら、これは医学的に無知なわけですので話になりません。HIVの感染力を知った上で「他の患者様に不安感を与える」といった理由で看護師を退職させようとしたとしましょう。そのような病院は、私が「他の患者様に不安感を与える」病態に陥ったら、私を放り出すでしょう。そのような病院を容認する社会は、ハンセン病元患者の宿泊拒否を容認する社会であり、エロ同人誌の所持だけを理由にした解雇を容認する社会です。


*1:看護師側の主張が正しいと仮定して。報道によれば病院側は退職勧奨を否定している。ここでは退職勧奨の事実関係については議論しない。退職勧奨が事実であったと仮定した上で、その退職勧奨の正当性を問題にしている

*2:Puro V et al., HIV, HBV, or HDV transmission from infected health care workers to patients, Med Lav. 2003 Nov-Dec;94(6):556-68.(summaryのみ参照)