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なぜ大正時代に衝心脚気が無くなったのか?

辰野/浦口の論理にいささかおかしいところがあったとしても、大正時代に衝心脚気が消失したことについて何らかの説明が必要だとお考えの方のいるかもしれない。辰野*1は「(”衝心性脚気”は)明治末期から大正の初めにかけての年代に無くなってしまった」と書き、浦口*2は"Shoshin-kakke disappeared from the country almost completely after 1929."と書いた。大正時代に日本の脚気による死亡者数は減っていないことは■米の検定は脚気死亡数に影響せずで示したが、「米の検定によってカビ毒による衝心脚気は減ったが、全脚気死亡者数はビタミン欠乏による通常の脚気が大半を占めるため、統計値として表れない」という可能性はあるのだろうか?





東京大学における衝心脚気の病理解剖数の減少*3


辰野/浦口の主張の根拠は、東京大学病院で死亡した患者の病理解剖の記録である。コメント欄でも指摘されている通り、東京大学病院の病理解剖の記録をそのまま日本全国にあてはめることはできない。もし、病理解剖の記録が当時の日本の状況を反映していると仮定しよう。となると、通常の脚気による死亡者数にはあまり変化が無く、衝心脚気による死亡のみが急激に減ったことになる。より詳しい死因統計があればはっきりするのだが、見つからない。しかし、衝心脚気の急減な減少があれば、臨床医が「そういえば最近は衝心脚気を見ない」などと気付くはずである。昭和15年(1940年)の、慶応義塾大学教授大森憲太(ビタミンB不足が脚気を起こすことを人体実験で証明した人)による、脚気衝心の記事*4を紹介する。脚気衝心の一般的な誘引、症状を述べた後、「末期に痙攣を伴へる急性衝心死の一例」として症例を提示する。



かくの如く、険悪なるべき状を呈せる衝心は、必しも死の転帰を採るものでない。ことに近頃ビタミン大量療法の発見によって著しくその死亡率を減じた。軽快するものはまづ半日位で自覚症状軽快となり呼吸困難、胸内苦悶、悪心、嘔吐、倦怠感等速やかに去り、二〜三日にして脈拍および呼吸数は減退して急激に快方に向ふ。一般症状の軽快雷雨の晴れたるが如し。但しその他覚的症状殊に神経麻痺の症状は必しも然らず。ときに却って増悪するものあり。


辰野/浦口によれば「ほとんど完全に日本から衝心脚気が消失した」はずの1929年から11年後の記事である。著者は、「最近珍しい衝心脚気を経験した」などとは書いていない。「近頃ビタミン大量療法の発見によって著しくその死亡率を減じた」とある。別のところでは「吾人の経験によれば十中の八、九はこれを救ふことができる」ともある。少なくとも1940年ごろまでは、治療効果を評価できるぐらいの数の衝心脚気は発生しているわけである。当時の医療制度については詳しくないが、貧乏人まで平等に大学病院にかかれたとは思えない。地方在住者や経済的弱者は、ビタミン大量療法を受けられず、衝心脚気によって死亡していたと思う。

少なくとも1940年には衝心脚気の治療法が確立されており、大学病院で適切な治療を受ければ8〜9割は救えるという。では、治療法が確立したのはいつか?辰野によれば「実際にオリザニン(ビタミンB1)が医療の場で使われるようになったのは、東京大学の島園医学部教授が脚気治療の場で使って効果が確かであると発表された1929年以降であり、それまではほとんど医療の場では使われることがなかったといわれています」とあるが誤りである。島薗順次郎は1919年(当時、京都帝国大学医科大学教授)に、日本内科学会総会において脚気宿題報告を行い*5、オリザニンの治療効果もそのとき報告された。島薗順次郎は脚気ビタミン欠乏説支持の中心的人物であった

辰野/浦口が根拠とする病理解剖の記録は東大病院のものである。京大出の島薗が「オリザニンが効く」と主張しても、東大の医師はすぐには受け入れなかったのではないか、という疑問がわく。そもそも、1919年より以前にすでに衝心脚気の病理解剖の記録は減っている。だが、この点についても、説明は可能である。医師でない鈴木梅太郎によるオリザニンはなかなか医師の間では使われなかったと聞く。しかし、エイクマンおよびフレインスの実験は1910年ごろには日本でも知られており(だからこそ鈴木は糠から有効成分を抽出しようとしたのである)、鈴木以外にも米糠の抗脚気成分に注目した人はいた。たとえば、都築甚之助は1910年に糠抽出物「アンチベリベリン」を発表し、大量生産と販売に成功している*6。東大でも、米糠に注目した人はいた*7



自分[大森憲太]は大正6年[1917年]東大の入沢内科に入つたのであるが、当時入沢内科は田沢鐐二氏の米糠水エキスによる脚気治療に大童であつた。その動機についてははつきりしないが、とにかく少量では効かないが、乾糠200gに相当する大量のエキスを与えると卓効がある。(P6)


入沢とは、ツンデレ論文を書いた入澤達吉のこと。何年ごろから東大で米糠水エキスによる脚気治療による治療がなされていたのかはわからないが、少なくとも1917年ごろには、不完全ながらも米糠抽出物による脚気治療はなされていた*8。東京大学病院の病理解剖の記録で衝心脚気による死亡が減っているのは、日本の衝心脚気の発生が減っているのではなく、治療法が進歩してきたことに由来するのではないか。3回目の米の公の検定は1920年ごろなのに、それに遅れて1925年から病理解剖の記録における衝心脚気が激減している理由については見当がつく。1924年に、島薗順次郎が東大医学部教授になっている。

まとめ。

  • 衝心脚気は慢性の脚気状態に併発し、ビタミンB1欠乏状態と関係し、ビタミンB1による治療によく反応する。よって、通常の脚気と同じく、ビタミンB1欠乏によって起こると考えられる。
  • カビ毒・シトレオビリジンがヒトに衝心脚気を起こす可能性は十分にあるが、証明はなされていない。
  • 全国で米の管理が行き届いたのちも、脚気による死亡者数は減っていない。
  • 大正時代に日本から衝心脚気が消失したという証拠はない。東大医学部の病理解剖の記録で衝心脚気が減ったのみである。
  • 病理解剖の記録で衝心脚気が減っているのは、年度による自然な変動のほか、オリザニン以外のビタミン製剤の使用、脚気ビタミン欠乏説支持者の教授就任などによって説明しうる。

余談や総括はあるかもしれないが、脚気の話はとりあえずこれで一区切り。皆様、よいお年を。

*1:辰野高司著「カビがつくる毒 日本をマイコトキシンの害から守った人々」東京化学同人発行(1998年)

*2:Uraguchi, K. 1969. Mycotoxic origin of cardiac beriberi. J. Stored Prod. Research 5: p227-236

*3:辰野 1998より引用、浦口 1969にも同様の図あり

*4:大森憲太、脚気衝心、臨床医学 28:316 (1940)、旧字体は一部引用者によって新字体にした

*5:島薗順次郎、日本内科学会雑誌 7:237-342(1919)、100ページを超える論説中に『脚気に「ヴィタミン」は効力ありや』という項目あり。「余は昨年特に重症にして衝心或は之に近きもの十を選び、之に糠の製剤を与えたり」。糠の製剤は、鈴木梅太郎の方法で島薗がアルコールエキスにしたもの、三共商会から提供されたもの、鈴木の方法でエキスをさらに精製した「いわゆる粗オリザニン」であった。粗オリザニンは注射製剤である。重症脚気の10例中7例が軽快、3例が死亡した。「脚気に対して「ヴィタミン」が効力ありや否かの重大問題を解決するには、其例尚少数なるを以て此には未だ論決するに至らず、更に経験を重ねんとす」とある。

*6:内田正夫、■日清・日露戦争と脚気(PDF)、(2007)

*7:大森憲太「近代の脚気原因研究のあゆみ」、ビタミン50年記念事業会発行「ビタミン研究五十年」に収録、1961年

*8:日本内科学会雑誌 7:179-211(1919)に田澤による『糠「エキス」ノ生理的作用ニ就キテ』という論説があった。「動物の白米飼養疾患即ち「アヴヰタミオノーゼ」に対して特殊の作用を呈する物質の米糠中に存在するは周知の事実なり」とある。ヒト脚気にも効く。白米とヒト脚気は一定の関係はあるが素因に過ぎない。ヒト脚気と白米病は異なる。というのが論旨。