NATROMのブログ

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ヒトの出生性比はコントロールされているか?

妊娠前に栄養状態が良い母親からは男の子が生まれやすいというネタをやろうと思っていたが、stochinaiさん@5号館のつぶやきに先を越されてしまった。


■ヒトの性比が妊娠前の女性の栄養状態で変わる(5号館のつぶやき)


 イギリスの750人の初産の妊婦さんを調べた調査結果で、妊娠する前と妊娠してからの食生活について詳しく聞き取り調査して、妊婦さんを3つのグループ(カロリーの摂取量が多い、中くらい、少ない)に分け、その人達の子供の性を調べたところ驚くべき結果が出たというものです。
(中略)
 妊娠前に栄養状態のもっとも良く、朝食もしっかり食べていたお母さんからは56%の男の子が生まれ、栄養状態のもっとも悪かったお母さんからは45%しか男の子が生まれなかったというのです。


元論文や「5号館のつぶやき」のコメント欄でも言及されているのだが、この話は社会生物学的に説明可能かもしれない。社会生物学においては、性比のコントロールはトピックの一つである。いささか古い本だが名著とされているロバート・トリヴァース*1の「■生物の社会進化 」は、一次性比に一章を割いている。一次性比とは各世代が始まるときの性比のこと。多くの種で一次性比は概ね1:1、つまり、オスとメスはだいたい同じ数だけ生まれる。その理由は、1:1から極端に外れた状態は不安定だからである。仮にメスが極端に多い集団があったとすると、その集団ではオスはメスより多くの子を持つことになる。娘より息子を多くつくる個体は多くの孫を持つ、つまり繁殖に成功する。息子を多くつくる個体が数を増すと集団中のオスは多くなり、性比は1:1に近づいていく。1:1の性比は平衡状態というわけ。

集団全体からみて1:1の性比が平衡状態であっても、各個体が子の性比をどうするのかは別の問題。「[集団全体の性比が]平衡状態に達して以後は、息子と娘の繁殖成功に相対的な差をもたらす要因にあわせて子の性比を調節できる親が選択されるのである(P341)」。つまり、たとえば、栄養状態が良ければオスを多く生むように性比を調節できる親が選択されるのかもしれないわけである。「生物の社会進化」では実例を多く引用しているが、アカシカにおいて母親の順位が出産性比に影響を与えている例を挙げている。



子の出生時平均体重など,繁殖に関連するさまざまな尺度に関して,優位メスは劣位メスに優っている.優位メスの息子は娘より多くの子を残し,逆に劣位メスの娘は息子より多くの子を残す.期待されるとおり,母親が優位であるほど出生時性比はオスに偏るようになる。(P355)



「社会生物学」P354の表11-6を複写して引用


他にも、「標準以下の餌しか食べていないフロリダモリネズミNeotoma floridanaの親は,息子に対する授乳を拒むことによって順に殺していき,最後には娘の世話だけをするようになる(P354)」。この例は一次性比とは違うが、十分な栄養が取れない環境下では、親による子に対する投資が息子よりも娘に偏る一例にはなっている。なぜ栄養状態が良いときには息子に、栄養状態が悪いときには娘に投資したほうが良いのか?通常の種においては、オスはメスをめぐって争う。「成熟時に平均以上に良好な状態にある(たとえば平均より大きくなっている)オスは,平均以上に良好な状態にあるメスより高い繁殖成功をあげるだろうし,平均以下の状態では逆になるだろう(P353)」。正確さを犠牲にしてわかりやすく言えばこうだ。

栄養状態が良ければ息子に投資しろ。立派な息子はライバルたちに勝って、多くの孫を作るだろう。栄養状態が悪ければ娘に投資しろ。貧相な娘でも繁殖相手がいないってこたないから、最低限の孫は得られる」。

ここまでがヒト以外の生物の話。冒頭の報告は、「栄養状態が良ければ息子を産め戦略」が、もしかしたらヒトにも適用可能かもしれないことを示唆している。「生物の社会進化」では人類における性比の変異についても述べられている。



同一集団内でも性比は状況により変化する.良好な状況では男の子が生まれやすいという一般法則があるようだ.たとえばオーストラリアでは受胎時に雨が多いと,ポルトガルでは出生時に豊作であると,男の子が生まれやすい.いくつかの人類集団で性比に影響している重要な変数の一つに社会経済的地位がある.(P359)


アメリカ合衆国では社会経済的地位の高い人ほど男の子を産みやすく、同様のことがインドやイギリスでも知られているそうだ*2。妊娠前に栄養状態が良い母親からは男の子が生まれやすいのも、「良好な状況では男の子が生まれやすいという一般法則」の一例であり、生物学的に説明可能と言い切ってしまいたいが、ヒトについては関与する因子が多いので断言はできない。

元論文によれば、ここ40年間は先進諸国で出生性比の低下がある、つまり男の子が生まれにくくなっているそうだ。環境ホルモンなどのせいにされがちであるが、妊娠前の栄養状態が関与している可能性が元論文では述べられている。日本の出生性比をググってみたら、1970年ごろをピークに現在は減少傾向にあるとのこと。日本人の摂取カロリーも1970年ごろをピークに減少傾向にあるようで、なるほど、当てはまるように見える。

*1:Triversは元論文でも言及されている

*2:社会経済的地位は交絡要因かもしれないよね。特に「生物の社会進化」が書かれた古さを考慮すれば。社会経済的地位が低くても十分な、もしくは、むしろ過剰な栄養を取れる社会ではどうなるのか知りたい

何がシロアリの真社会性を進化させたのか?

シロアリの遺伝的カースト決定のエントリーを書くためにいろいろ調べ物をした。その過程で「シロアリはなぜ真社会性を進化させたのか?」という疑問に対して、納得のいく答えを得たような気がするので忘れないうちに書いておく。まず、真社会性とは何か、から。E.O.ウィルソンは以下の3項目を真社会性を満たす条件としてあげた。



(1)複数の個体(ハチではメス)が共同して育児を行なう。
(2)二世代以上の個体が共存し、娘がコロニーの維持のため母親の仕事を手伝う。
(3)繁殖(=産卵)にかかる個体間の分業とカーストが存在する。


真社会性昆虫とはアリとかミツバチとかアシナガバチとかシロアリとかがそう。実はアブラムシにも真社会性を持つものがいる。アシナガバチの仲間には、複数のメスが巣を共有するけど別に分業していないとか、娘が育児を手伝うがその気になれば産卵もできるというカーストが未分化な種とかがある。生物進化を考えれば、アシナガバチはコロニーを作らない祖先種から漸進的に進化してきたはずであり、さまざまな段階の社会性を持つ種があっても不思議ではない。この話もすごく面白いのだが置いといて、なぜチョウやバッタやカブトムシは社会性を進化させなかったのに、アリやミツバチやシロアリは社会性を進化させたのか?という話をする。

社会性昆虫の進化はダーウィンにとって難問だったとされている。だって自然選択説とはつまり、「より繁殖に成功するような性質が選択されて進化する」てことだぞ。不妊になって他の個体の世話をするような「利他的」な性質がどうやって進化した?全然繁殖に成功していないじゃん。この難問に答えたのが、ハミルトンによる血縁淘汰説。自分は不妊であっても、血縁個体の繁殖成功を通じて自分の遺伝子を残すのだ(遺伝子からの見方をするならば、血縁個体を世話させる遺伝子は血縁個体を通じて自己を残す)。

アリ/ハチ(膜翅目)についての4分の3仮説は有名であろう。アリ/ハチの性決定システムはちょっと特殊で、オスは半数体(染色体数=n)、メスは二倍体(染色体数=2n)である。性染色体はない。減数分裂がないから一匹のオスの産生する精子は遺伝的にどれも同一(これ重要!)。卵子は普通に減数分裂して生じるが、未受精のままだとオス(n)、受精するとメス(2n)になる。アリのオスにはお父さんはいないわけ。重要なのは、精子が遺伝的に同一のため、同一ペアから生まれたメス同士は血縁度が近くなることだ。




アリ/ハチの4分の3仮説:オス個体では減数分裂が起こらず、その配偶子(精子)は遺伝的に同一である。メス個体(女王アリ)由来の配偶子(卵子)は減数分裂が起こるのでそれぞれ異なり、お互いに遺伝子を共有する度合いは平均して50%である。受精卵はメス個体になる(ワーカーもしくは女王)。父親由来の遺伝子はすべて同一、母親由来の遺伝子は50%だけ同一。血縁度は100×0.5+50×0.5=75%となる。

ややこしい計算については興味がある人は「社会性昆虫 血縁度」とかでググってもらうとして、アリのメスにとっては、妹の血縁度は75%(つまり4分の3)、娘の血縁度は50%となる。コストが同じなら娘を一匹育てるよりも、妹を一匹育てるほうがお得(遺伝子的な意味で)。同胞を育てるほうが得というのはオスには当てはまらない。だから、アリ/ハチのワーカーはすべてメス。アリの遠い祖先に、いちいち家を出て苦労して巣を作って娘を育てるぐらいなら、家でおかんの手伝いして妹を育てたほうがマシだと気付いた奴がいたんだよ。実際のところ、アリ/ハチの社会性の進化はハミルトンの4分の3仮説だけで説明できるような簡単なものじゃないようなんだけど、それはそれとして4分の3仮説は納得力の高い話である。

アブラムシについては簡単。奴ら、クローンだから。血縁度100%。血縁淘汰で説明可能。じゃあ、シロアリは?シロアリの性はXY性染色体で決まる。4分の3仮説は使えない。単為生殖もするけど、あくまでパートナーが見つからなかったときの代替手段。シロアリはなぜ真社会性を進化させたのか?専門家の間でも議論があるようだけど、とりあえず以下のような話で私は納得できた。

シロアリの祖先種って、どんなだったろう?ゴキブリとシロアリは近縁であることは結構知られている。ゴキブリは家の中で見かけることが多いのだけどそりゃ単に人の近くいるからよく見かけるだけで、ゴキブリの多くは林の中に住んでおり、朽ち木なんかを食べる。シロアリの祖先も、多分、朽ち木の中に住んでいた。朽ち木って結構でかいよね。小さなシロアリが食べきるまでには時間がかかる。朽ち木の中で生まれたシロアリは、わざわざ危険を冒して遠くの朽ち木を探しにいくよりか、そこにたっぷりある朽ち木を食べればいい。問題は、交配相手。近くには近親しかいない。近親交配はデメリットもあるんだけど、分散のリスクのほうが大きければ近親交配したほうがよい。実際、現生のシロアリでは、繁殖ペアのどちらかが死んだら、息子か娘かが新しい繁殖虫となる。

というわけで、シロアリの祖先は近親相姦し放題。実験用マウスを扱っている人なら分かると思うけど、同系交配をどんどん続けていくと、ホモ接合の度合いが高くなり、いわゆる「純系」に近くなる。となると、いわば娘も息子も妹も弟も遺伝的には皆同じ。クローンみたいなもん。もう自分で繁殖しなくても、弟や妹を育てても一緒。アリ/ハチと違って、シロアリのワーカーはオスメス両方いる。ここまででもだいぶ納得しそうになるけど、話はこれだけではない。

近親相姦の花園であった朽ち木も、いつかは無くなるときがくる。そうなればいやがおうでも 分散せざるを得ない。分散の過程で多くの個体は死ぬが、運よく生きのびて、パートナーと巡りあった個体は新しい花園を築くであろう。パートナーも、おそらく別の花園で長い同系交配を続けてきた、別系統の「純系」である。純系に近い個体は、ホモ接合の度合いが高いがゆえに、その配偶子は同一性が高い(アリ/ハチの精子と同様に)。同一性の高い配偶子同士が受精した受精卵も、同一性が高くなる。




循環的同系交配理論:王アリおよび女王アリは、何代もの同系交配によって、どの遺伝子座もホモ接合となっている。減数分裂は起こるが事実上配偶子は遺伝的にほぼ同一である。よって受精卵同士も遺伝的にほぼ同一であり、血縁度は100%である。図には性染色体は示されていない。子はオスもメスも生じうる。

つまり、コロニー創設ペアの子は、お互い同士ほとんど同じ遺伝子を持つことになる。血縁度ほぼ100%。一方、自分で繁殖しても血縁度100%の子は作れない。コストが同じなら、自らが繁殖するよりも、同胞を育てたほうがお得(遺伝子的に)という状況が生じるわけである。利他的な不妊のカーストが進化しやすい状況だ。一言でまとめれば、近親相姦がシロアリの真社会性を進化させた。実際、この話がどれくらい正しいのか私には分からないけれども、自分では納得できたからこれでいいのだ。というか、利己的な遺伝子 <増補新装版>のP488あたりに書いてあった。やっぱりハミルトンの説だ。

「利己的遺伝子説@南堂久史」

■利己的遺伝子と男の浮気に対して南堂さんから反論があった。南堂氏がこのエントリーに反論するのであれば、是非、誰がそのような主張をしているのか、具体的な引用とともにご教示いただきたいと書いておいたのだが、もちろんのこと具体的な引用はされていない。「利己的遺伝子説を信じる進化論学者は、こう主張することが多い」んでしょう?多いんなら、具体的に引用することも簡単でしょう?どうしてできないの?

さて、南堂さんによる反論は長いので、私が見所だけピックアップする。引用は■ドーキンス説をめぐる無駄論議2*1のコメント欄から。



彼のいいたいことは、「南堂の説は間違っている」ということではなくて、「南堂はドーキンス説を正しく引用していない」ということだ。要するに、私の考える利己的遺伝子説と、彼の考える利己的遺伝子説とが、違っている。ま、そんなことは、学問の世界では、よくあることだ。××派の考える概念と、○○派の考える概念とは、同じ用語であっても、違う概念になる。そういうことは、よくある。「利己的遺伝子説」という概念もまた同様。


で、彼の言いたいことは、ドーキンスの原著に書いてあるものだけが利己的遺伝子説であって、それ以外のすべては利己的遺伝子説ではない、ということだ。だから、私の想定する「利己的遺伝子説」というものが、ドーキンスの原著の通りではないからという理由で、「南堂はドーキンスを読んでいない」と結論する。


これを比喩的に言うと、われわれが微積分学を微積分の教科書で勉強したときに、この人物はこう批判する。
「あんたはニュートンもライプニッツも読んでいないじゃないか。だからあんたは微積分学を学んだことにはならない。微積分学のことを論じるのであれば、ニュートンをライプニッツを読んで、原著の該当するページを示せ」


要するに、こういう人には、「学問は歴史的にどんどん発展する」ということが理解できないのである。そして、古典文学の研究者のごとく、一番最初の原典を重視する。これはつまりは「原典主義」である。ただひたすら原典との異同だけを論じる。(テキスト校正学?)


多くの専門家は誤解している」という主張が、いつのまにか「××派の考える概念と、○○派の考える概念とは、同じ用語であっても、違う概念になる」に後退していますよ南堂さん。南堂さんは、単に概念が異なるというだけでなく、「ドーキンスの利己的遺伝子説を、誤解している専門家が多い」と言っていますよね。一方で、ブルーバックス等の解説書を読んだ一般人は正しく理解しているとも。「ある学説について、誤解している専門家が多い一方で、一般人のほうがむしろ正しく理解している」って、学問の世界でよくあることなんですか?

よろしい、私や多くの専門家が考える「利己的遺伝子説」と、南堂氏(およびブルーバックス等の解説書を読んだ一般人の一部)の考える「利己的遺伝子説」とは、違う概念であることは認めましょう。実際に、ぜんぜん違うもの。で、多くの専門家が「ドーキンスの説を誤解して」いて、南堂氏が正しく理解しているとする、その根拠は?微積分を微積分の教科書で勉強することは批判しないさ。だったら、進化生物学の教科書で勉強すれば?南堂さんのやっていることは、微積分の教科書すら読まず、ブルーバックスだけ読んで(しかもこのブルーバックスの著者は「数学的な論争を行うための基本的な態度に問題がある」などと専門家にダメ出しされていたりする)、「微積分を誤解している専門家が多い」と言っているようなものです。学問のレベルで論じたいなら、教科書ぐらい読んだほうがいいと思います。



私が念頭に置いている「利己的遺伝子説」は、ドーキンスそのものの説ではない。ドーキンスのがあとで広がったものだ、と見なしてほしい。だから、それがドーキンスの原著にないとしても、ごく当たり前のことだ。


で、そのようにして「利己的遺伝子説」と呼ぶのが気に食わないのであれば、「ここで言う利己的遺伝子説とは、ドーキンスの説そのものではなくて、そのエッセンスを取って発展させたものだ」と定義し直せばいい。その上で、「現代の利己的遺伝子説の論者は、(サイエンスライターの)××氏などである。利己的遺伝子説の創始者の座は、彼らのものである」とでも呼べばいいだろう。そういう馬鹿げたことをしたければ。
 で、その場合には、「ドーキンスは、今日の利己的遺伝子説には、何ら貢献していない。彼は利他的行動も何にも貢献していない」という、馬鹿げた結論になる。

「ドーキンスの説を誤解している専門家」にドーキンス自身も含まれるとした私の予想は正しそうです。南堂氏が念頭に置いているドーキンス説は、「あとで広がったもの」であり、「ドーキンスそのものの説」ではないわけですね。「あとで広がった」といっても、専門家の間ではなく、ブルーバックスを読んだ一般人の間でであり、多くの専門家から「素人はドーキンスを誤解している」と指摘されるような代物です。よろしい。そんなものを「利己的遺伝子説」と呼ぶのは気に食わないので定義しなおしましょう。

「南堂氏の言う利己的遺伝子説とは、ドーキンスの説そのものではなくて、ドーキンス説を勘違い・誤解したものを発展させたものだ」と定義し直しました。確かにそのような説の創始者は、竹内久美子であり、中原秀臣であり、南堂久史である。「利己的遺伝子説@南堂氏」には、ドーキンスは何ら貢献していません。ドーキンスがそんな説に貢献しただなんて、ひどい中傷です。



数学の定理を見たら、その定理(つまり結論)だけを見て、証明は見ない。証明はすべて自分で考え出す。自分の頭でゼロから作り出す。……これがまともな数学者のやり方だ。他人の業績をいちいち逐次的に理解することなんかはしない。エッセンスだけを知ったら、自分の頭で独力で構成するものなのだ。そして、そのあとで、自分の証明と、元の証明とを、照合する。(自分の証明が間違っていることもあるので、チェックするわけだ。)

ここだけ読んだらその通りですね。でね、南堂さんのステキ過ぎるところは、その証明は間違っているよと指摘されたところで、自分の間違いを絶対に認めようとしないところです。それどころか、「専門家の多くは間違っている。私が正しい」としちゃうのです。まさしく「完璧なる自己肯定。あらゆる批判の拒否」。それなんてブーメラン?というかドーキンスの件に関しては、途中の証明どころか、定理(つまり結論)からして間違っていたのですが。



社会生物学全般を構築するような偉大な業績を上げたのは、まさしくドーキンスであって、日本のどこかのサイエンスライターなんかではないのだ。

ウィルソン涙目。でも、「社会生物学@南堂氏」を構築する業績を上げたのはどこかのサイエンスライターだから。



一方、私は、ドーキンス擁護論者だ。ドーキンスの主張を、言外の意も汲み取って、多大に評価するとしても、そのことでドーキンスから文句を言われる筋合いはない。むしろドーキンスからは「私は本当はそう言おうと思っていたんですよ。書いていないことを理解してくださって、ありがとう。私の業績を正当に認めてくれて、ありがとう」と感謝されるだろう。

なにこの根拠のない自信。完璧なる自己肯定。それにしても、こういうことが許されるのであれば、今後、南堂氏の主張を、言外の意も汲み取って、特に引用もせずに多大に評価したら感謝してくれますか?

*1:URL:http://openblog.meblog.biz/article/41771.html