NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

もし家族が肺炎になったら新型コロナの検査を要求するか?

COVID-19(いわゆる新型コロナウイルス感染症)症例が福岡でも出ました。私の外来にも「新型コロナが心配」という患者さんがぼつぼつ受診しています。幸い、私の外来ではいまのところはどなたも肺炎にはなっておらず、現時点では検査は不要だとご説明し、ご納得を得られています。

たまに誤解している人もいらっしゃいますが、現在(2020年2月22日)では新型コロナの検査に、中国への渡航歴や感染者への接触歴は必須条件ではありません。そうした条件を満たしていなくても、入院を要する肺炎や医師が総合的に判断し新型コロナ感染症を疑う場合など、「昨今の国内外の発生状況を踏まえ、これらの地域に限定されることなく、医師が新型コロナウイルス感染症を疑う場合に、各自治体と相談の上で検査することになります」*1

ネットでは「検査をしてくれない。要求しても断られる」という声を聞きます。自分や家族が病気のときに望む検査をしてもらえないのはつらいことです。一日に可能な検査の数には上限があり、希望者全員に検査を行うことができないという現状もあります。これから患者数が増えることが予測されるため、検査体制の強化は必要でしょう。

さて、現時点で、私の家族が肺炎になり入院したとして、主治医が新型コロナの検査は必要ないと判断したとしましょう。仮にそのようなことが起こったとして、私は検査を要求しません。なぜなら、私は(とくに家族が絡んだときには)利己的な人間であり、家族が治る確率を少しでも低くするような行為をしたくないからです

現在、新型コロナウイルス感染症に特異的な治療法は存在しません。新型コロナが陽性であろうとなかろうと、治療方針に大した影響はありません*2。新型コロナの検査は肺炎が治る確率を上げませんし、むしろわずかですがマイナスの影響がある可能性があります。個々人の希望通りに検査をしていたら必要な人に検査できなくなるという社会的な面もありますが、それ以上に、主治医のリソースも限られていることを忘れないようにしましょう。

新型コロナの検査を施行するには、まず主治医から保健所に相談をすることになります。病状を伝え、保健所からの折り返しの連絡を待ち、検査をすることが決まれば検体を採取し、適切な方法で輸送する手配をし、書類も書かなければなりません。これらは主治医やスタッフの業務量をわずかではありますが増やします。検査の結果次第で治療方針が変わり、よって肺炎が治る確率が増すのであれば問題はありませんが、そうではないのです。主治医には万全の状態で家族の治療にあたってもらいたいのです。なので主治医の業務量を増やし、集中力を割くようなことはしたくありません。主治医が新型コロナの検査が必要だと判断したのであれば、それに従います。家族のためというよりは疫学調査や感染管理に協力するためです*3

「他人に感染させないためにも検査をしたほうがいい」という意見もあるでしょう。ただ、この場合、家族はすでに肺炎なのです。原因となる病原体が新型コロナウイルスであろうとなかろうと、感染対策は必要です。それとも検査で新型コロナウイルスが陰性だったら感染対策の手を抜くのでしょうか。検査には偽陰性がつきものです。検査で陰性だったから大丈夫、と安心して感染対策をおそろかにしないようにしましょう。

新型コロナに限らず、日本では検査に頼りすぎな風潮があります。「出勤していいかどうか判断するためインフルエンザの検査をしてくれ」と病院を受診する人はよくいらっしゃいます。検査で陽性でないと会社を休みにくいのです。また、今回の新型コロナウイルス感染症の患者さんの一人は、発熱があったにも関わらずバスツアーに参加したと報じられています。「検査でインフルエンザが陰性だからツアーに参加しても大丈夫」との判断があったのかもしれません。

検査方法があるのに検査できないことを理不尽に思うのは当然のことです。学校や会社が陰性の証明を求めるからには検査目的の受診も仕方がありません。ですが、安心感だけを求めて医学的に必要性に乏しい検査を行うのは社会的にも、患者さん個人にとっても不利益になります。社会の在り方は一朝一夕には変わりませんが、検査に頼りすぎず、必要十分な検査のみ行い、検査の結果に関わらず感染対策が取れるように徐々にでもよいから改善するように願っています。

*1:新型コロナウイルスに関するQ&A(医療機関・検査機関の方向け)令和2年2月21日時点版 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00004.html

*2:「検査陽性なら治験中の薬を使える」というご指摘が予想できますが、主治医が新型コロナの検査は必要ないと判断するぐらいの病状では、効くかどうかわからない薬を使うリスクのほうが高いでしょう

*3:主治医が必要だと判断したのに検査を断ると、説得そのほか無駄な業務が発生するので、完全に利己的な人でも検査を受けるでしょう

リキッドバイオプシーの商業化の問題点

『「血液一滴」あるいは「尿一滴」で、がんを早期発見!』という話は以前からたくさんあるが、なかなか実用化されない。こうした、少量の体液からがんを診断する技術を「リキッドバイオプシー」と呼ぶ。現時点では、一定の精度でがんを診断できるリキッドバイオプシーは複数あるが、がん検診に有効であると証明されたものは一つも存在しない。がん検診に応用するには、がん死亡率を低下させることが示されなければならず、これがハードルが高いからだ。

ある検査ががんを診断する能力を検証するのはどうすればいいだろうか。よくあるのが、すでにがんと診断された人にその検査をして、どれぐらいの割合で陽性になるのかを調べることだ。また、がんではない人を正しくがんではないと診断する能力も必要なので、健康な人にもその検査を行って正しく陰性になる割合を調べる。それぞれ数十人ずつ調べればだいたいのところはわかる。研究に参加した時点で診断はついているので、観察期間も不要だ。なんなら、過去にがんと診断された患者の保存した検体を使うこともできる。

一方で、がん死亡率低下を検証するのはハードルが急に高くなる。症状のない人を検査を受ける介入群と検査を受けない対照群に、できればランダムに振り分けて、がん死亡が起きるかどうか長期間観察しなければならない。数十人ではまったく話にならない。がん死亡はめったに起きないイベントだ。日本人では、すべてのがんで10万人あたり年間に数百人ぐらいである。100人を10年間追跡調査したとしてやっと数人ぐらい。統計学的有意差を出すためには非常に多くの人を対象にした研究が必要だ。実際、がん検診の臨床試験の参加者が数万人というのは普通にあり、なかには10万人を超えるものもある。

とにかくコストがかかるので、いきなりランダム化比較試験をやれ、というのは非現実的だ。まずは比較的コストがかからない研究から積み上げていくのは当然である。その過程で、まずは安定した精度で安価に結果を得る技術を開発するというのもわかる。リキッドバイオプシーは低侵襲でがんを診断できる有用な技術であってけっしてトンデモではない。ただ、がん死亡率の低下が示されていない段階で、検診を目的に有償で広く検査を提供するのには慎重さが必要だと考える。研究開発にはお金がかかるので、どこかの時点で収益を上げないといけない事情はあるのだろう。

どこかで似たような話があったなあ、と思ったが、思い出した。漫画の『ラーメン発見伝』であった。登場人物の一人である芹沢は、鮎の煮干しを用いた淡口ラーメンを「一握りの味のわかるお客サン」に安価に提供するために、繊細な鮎の香りが吹っ飛んだ濃口ラーメンを「頭に舌のついたボンクラとした言いようがない連中」に売っている。他の客は、芹沢が理想と考えるラーメンの「製造経費を運んでくる働きバチ」なのだ。

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他の客は働きバチみたいなもん

ランダム化比較試験の経費を稼ぐため有償で検査を提供するのはありなのだろうか。ラーメンなら、味のわからない客でもうまいと感じればそれはそれでいいのだろうが、医療の分野、とくに検診ではそういうわけにはいかない。すべての検診には害がある。公的に推奨されているがん検診にも害はあるが、がん死亡率の減少という利益が害を上回るから容認されているのであって、未検証のがん検診は害だけあって利益がほとんどない、ということもありうる。

がん検診の害や利益はわかりにくく、害よりも利益を誤って大きく感じるバイアスがある。偽陽性は検診の害の一つだが、それだけではない。がんを早期発見し、治療を行い、がんで死ななければ検診のおかげと考えてしまうが、一生症状の出なかったはずのがんや、あるいは症状が出てから治療しても間に合うがんを検診のせいで見つけてしまったかもしれない。というかむしろ、検診で発見されたがん患者の多くはそうしたもので、検診から利益が得られる患者のほうが少ない(参考:■検診で乳がんが発見された人が100人いたとして )。

がん検診の有効性を証明するには時間もお金もかかる一方で、「味のわからない客」にがん検診が有効だと思わせるのは容易だ。「低侵襲低コスト」「複数の種類のがんを同時に発見可能」「検査の精度は○○%」。いずれの情報もがん検診の有効性を証明することにはならない。

安きに流れることなく、未検証の状態で無症状の人に検査を提供するときには、検査に伴う不利益についても十分な情報提供をお願いしたい。

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる

がんを治すことが証明された食事療法は、現時点では存在しない。がんになりにくい食事ならある程度はわかっていて、がんの患者さんについても、基本的にはそうした健康的な食事が推奨されている。詳しくは



■がん体験者の栄養と運動のガイドライン:[国立がん研究センター がん情報サービス 一般の方へ]



を参照して欲しい。なにも特別なことはない。「健康的な体重へ減量し、その体重を維持しましょう」「野菜、果物、全粒穀物を多く含む食事パターンにしましょう」といったものだ。食べてはいけないものはない。当たり前だが、健康的な食事をしていてもがんになるときはなる。ましてや、がんを治す効果はない。

何度も書いてきたが、がんに対する厳格な食事療法は、効果が不明確なわりに副作用が大きい。単純に栄養の偏り(野菜ジュースを大量に飲むためほかの食事が摂取できない、など)が体力を落とす以外にも、自分の好きなものを食べられない、というのは生活の質を確実に落とす。また、患者さん自身が自分で積極的に選んで行っているならともかく、本人が消極的で家族が熱心な場合は家庭不和の原因になりかねない。

しかし、がんの食事療法は健康本では人気である。実際の臨床の現場においても、「好きなものを食べてもよい」という説明に十分にご納得いただけないことがある。なぜか。推測だが、「がんになったのは何か根本的な原因があるはずだ。毎日の食事こそが、がんの根本的な原因ではないか」という思考が働いているのではないか。食事療法を推す健康本でも似たようなことがよく書かれている。

「がんといった重大な災難には、それにふさわしい原因があるはずだ」という感情は自然なものだ。おそらく、人類が進化してきた過程において、災難に原因があったとする心理は生存に有利に働いてきただろう。腹痛や下痢で死にそうになったとき、その前に食べたものを原因だと断定して次から避けるほうがいい。必ずしも正しい因果関係に基づかなくてもよい。腹痛の原因をまったく気にしなかったり、あるいは腹痛の原因候補の食品を食べる実験を繰り返して真の因果関係を追及したりするライバルよりも平均して生存に有利なら、腹痛の原因を直感的に断定する心理が進化する。

しかし、がんをはじめとした病気には原因を特定できないこともある。むしろ、そうしたケースのほうが多い。もちろん、肺がんと喫煙、肝臓がんと肝炎ウイルス感染のように、集団においては原因を特定できる場合もあるが、それにしたって「同じようにタバコを吸っていて肺がんにならない人はたくさんいるのにいったいなぜ私が肺がんになったのか」という疑問には答えられない。個々のケースではやはり原因は特定できないのだ。病気になる確率を減らすことはできるが、病気を確実に避ける方法はない。人が病気になるのは、何か悪いことをした報いではない。強いて言えば、運が悪い。

インフルエンザの治療薬であるタミフルと異常行動の関係が疑われたのは10年以上前だ。調査は続けられたが現在になってもタミフルが異常行動のリスクを増やすという証拠は見つかっていない。異常行動を起こした結果亡くなった子どもの親たちがタミフルが原因なのではないかと疑うのは当然のことであるが、インフルエンザだけでも異常行動が起きうるという当時から知られていた医学的事実を無視して、薬害だと主張するごく一部の専門家もいた。「死亡につながる異常行動といった重大な災難には、それにふさわしい原因があるはずだ。インフルエンザだけで異常行動が起きるはずがない」という直感が影響したのではないかと私には思われる。

生活習慣が原因だとされている糖尿病や脂質異常症も似たような側面がある。肥満は糖尿病のリスク因子だが、肥満していても糖尿病にならない人もいれば、肥満していなくても糖尿病になる人もいる。肥満そのものも、本人の意志だけではなく、環境要因や遺伝要因の影響を強く受ける。病気の原因は複雑であって、「不摂生のために病気になった」と単純に断定するのは誤りだ。「生活習慣病」という呼び方には功罪ある。疾患のリスクを周知するという「功」がある一方で、病気になったのは本人の努力不足だとする誤解を招きやすいという「罪」がある。そろそろ生活習慣病という呼び方は止めたほうがいい。

病気の原因は必ずしも特定できないこと、単に運が悪いとしか言いようのない不幸は一定の確率で起こることが周知されますように。